「とみ田」のつけ麺にこもる挫折とこだわり 圧倒的支持の裏には店主の紆余曲折があった

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「つけ麺の生みの親」などと呼ばれ、日本でつけ麺を広めた故・山岸一雄さん(筆者撮影)

ラーメンが大好きで趣味でよく食べ歩きをしていた。「ラーメン二郎 三田本店」「べんてん」などによく通っていたそうだが、何と言っても大好きだったのが「東池袋大勝軒」だ。「つけ麺の元祖」「つけ麺の生みの親」などと呼ばれ、日本でつけ麺を広めた故・山岸一雄さんのお店だ。

山岸さんが厨房に立っていた頃、富田氏は足しげく通っていたという。富田氏は山岸さんを「マスター」と呼ぶ。

「いつも通っていて、ラーメンを作っているマスターがほんとにカッコよく見えたんですよね。それで、昼は実家の土木建築会社を手伝いながら、夜は茨城県笠間市にある『壱福家』というお店でアルバイトを始めました」(富田氏)

当時の大勝軒では、山岸さんの弟子として田代浩二氏が働いていた。後の富田氏の師匠にあたる人物だ。

ある日、知人から大勝軒が佐貫にできるという情報を得て、家からも近いので行ってみた。すると、厨房に立っていたのは東池袋でよく見かけていた田代氏だった。

仕事を辞め、田代さんの弟子に

家から近いこともあり、週末はよく「茨城大勝軒佐貫本店」(茨城県龍ケ崎市、現在は臨時休業中)に通っていた。アルバイトもしていてラーメン作りに凄く興味があったこともあり、厨房をよく覗いていた富田氏。ある日、田代氏から声をかけられる。

「君はラーメンが好きそうだね。よかったらうちに来ない?」

日本のトップである大好きな大勝軒から声をかけられた喜び。富田氏は仕事を辞め、田代さんの弟子となる。22歳のことだった。

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田代氏は後に「麺屋こうじ」というグループを作り上げる人物だが、当時は「茨城大勝軒佐貫本店」1店舗のみ。初めは店舗の2階に住み込みで修業をしたが、そのうち新店ができるようになるとその立ち上げに追われる日々が続いた。

店舗が増えていくと「味噌ラーメンをやりましょう」「野菜ラーメンをやりましょう」「今度は味噌にバターを入れましょう」とどんどん新メニューの話が出てくる。

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