6年間妻を介護した岩本恭生氏の「壮絶生活」 小室哲哉氏に共感するのには理由がある
「僕の気持ちが折れてしまっているときに妻の機嫌が悪いと、ののしりあいのケンカをすることもありました。“どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないんだ”と思うこともありましたね。
でも本人がいちばんつらいこともわかるんです。今まで普通にできていたことができなくなって、迷惑をかけてしまうと思い込んでしまいますから」
介護が始まった当初は、毎週のように衝突を繰り返していたという。
考えを切り替えるも壮絶介護は続く
「介護をしている僕は、彼女に“ひと言でも感謝の言葉を言ってもらえたら……”と、求めてしまう部分もありました。でも、何も言ってくれないんです。考えてみれば、彼女も不自由な生活でストレスを抱えて、ギリギリの状態だったと思うんですね。でも、介護を始めた当時は、そう考える心の余裕を持てなかったんです」
溝が深まり、自分も追い詰められていく――。
岩本は、この状況を変えるべく、気持ちと考え方を切り替えることにした。
「妻に接するときは、子どもを見るつもりで接することにしました。子どもたちは彼女を“ママ”と呼んでいたので、僕は“ママちゃん”と呼ぶことにしました。子どもたちにとっては、僕もママも同じ親。でも、介護されている状態の彼女は、僕と対等ではないと考えるようにしたんです。
対等な立場だと、どうしても彼女にも感謝の言葉などを求めてしまう。あやすような感覚で接することで、彼女にいろんなことを求めないようにしたんです」
小室は、KEIKOが女性から“女の子”になったと話していた。岩本は、小室が自分と同じことを感じたのかもしれないという。気持ちを切り替えて新たに介護に取り組んだが、またしても厳しい現実が明らかになる。
「100パーセント以前の状態に戻るのは無理でも、母親として帰ってきてくれるという希望があるうちは、頑張れたんです。
最初の手術から3年後の2011年に2回目の手術を行うと、腫瘍が大きくなっていました。そこで“失ったものは元に戻らない”という現実を痛感しました。僕たちが夫婦として元に戻ることもないのだと気がついたんです。希望が絶たれてしまったと思いました」
2012年に実家のある札幌に移住し、岩本の母と同居を開始。生活環境を変えようとしたが、母も倒れてしまう。
「ストレスが倍になりましたね。6年間、禁煙していたのに再び吸うようになり、量も増えてしまって。母が倒れたとき、自分は56歳。子どもたちを置いて、北海道から仕事に出かけることができるのか。そんな状況で続けられるのか。仕事を減らして、収入がなくなってもいいのか……など、60歳を目前にして考えました」