イギリスが19~20世紀に大繁栄した真の理由 要因は産業革命ではなく「物流」にあった
世界の海をイギリスの蒸気船が席巻した理由については、17世紀、オランダがヨーロッパの海を牛耳っていた時代までさかのぼって考えなければならない。
オランダの中継貿易による利益は非常に大きかった。いくつかの国が、オランダの輸送料収入を減らし、自国のそれを増大させるため、保護海運業政策をとった。その中でも一国だけ、オランダに対抗するために、輸送コストが低い船舶を建造し、オランダ人の手中にあったヨーロッパの物流システムを、自国の輸送システムへと転換することで、経済力を高めようとした国があった。それがイギリスである。
オランダによって、イギリスは、海運業を支配し、物流をコントロールすることの重要性に気づいたのだ。
「歴代のイギリス政府がとった最も賢明な政策」
イギリスは、1651年から数度にわたり、オランダ船の排除を目指し、航海法を制定した。最初の航海法を制定したのは、ピューリタン革命の指導者として著名なオリバー・クロムウェルである。航海法は、イギリスが輸入を行う場合、イギリスの船か輸入先の船でなければならないと定めた法である。
実はイギリスは、輸出についてはすでにイギリスの船を使うことに成功していた。輸入船としてオランダ船を使用しないなら、イギリスの貿易においては、完全にオランダの勢力を追い出せたことになる。すなわちイギリスの貿易においては、輸出であれ輸入であれ、イギリス船で行えば、イギリスと海外との物流は、イギリス人の手中に収められる、と考えたのである。イギリスの物流はすべてイギリス人が行う。それが、イギリスが掲げたポリシーであった。
このようなイギリスの政策が、長期的にみれば、19世紀の帝国主義を成功させることになった。イギリス経済学の創始者ともいえるアダム・スミスも、「航海法は、歴代のイギリス政府がとった最も賢明な政策であった」と述べている。
イギリスは早くから、海運業の重要性に気がついていたわけではない。1560年の段階では、イギリスの海洋国家としての地位は極めて低かった。オランダ、スペイン、ポルトガルは言うに及ばず、ハンブルク、さらにはリューベックという都市と比較しても劣っていた。
このような状況にあったイギリスの転換点となったのが、航海法の制定であった。
イギリス人が所有する船舶の総トン数は、1572年の5万トンから、1788年には105万5000トンへと、200年ほどで21倍にも増加したのだ。19世紀初頭に至るまで、農業を除けば、イギリス最大の産業は毛織物工業であった。そして産業革命によって、綿織物工業へと変化する。毛織物工業全盛時代にも、海運業は、毛織物工業に次ぐ地位を占めていた産業であり、その比率は大きく高まっていった。ことほどさように、イギリスは物流を重視していたのである。
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