世田谷一家殺人事件、被害者の姉の「その後」 隣に住んでいた姉一家の人生も激変した
その姉が、入江さんである。
「“世田谷事件の遺族です”、そう人前で話せるまでに、6年かかりました。そして、今、17年たった私の姿です」
穏やかな表情は、犯罪被害者遺族という言葉が不釣り合いなほど。ざっくばらんな話し方も、実に親しみが持てる。講演の中では、事件を語る一方、被害者遺族と周囲が、どう向き合えばいいか、という話にも多くの時間を割いた。終盤では、次々と質問する学生に、「いい質問ですね」と、時に笑顔を見せながら、自分の考えを伝えていた。その姿が物語っていた。
17年を経て、入江さんが、「助けが必要な人」から、「助ける人」へと立場を変えていることを。
『あの日』から、どう生き直してきたのか
事件があった『あの日』から、どう生き直してきたのか。壮絶な日々を振り返ってもらった。
「両親の話もするんですか?ちょっと待っててください」
東京・港区の自宅リビング。入江さんはそう言い置くと、別の部屋から風のように2つの写真立てを持ってきた。
「こちらが父。豪放磊落(らいらく)で、ちょっと遊び人、なんて言ったら怒られちゃうかな(笑)。母は、見てのとおり、まじめな人でした」
1957年、東京・品川区旗の台で生まれた。不動産業を営む父親は、仕事柄、浮き沈みが激しく、しっかり者の母親が、家庭を守っていたという。2つ違いの妹・泰子さんとは、2人きりの姉妹で幼いころから、それは仲がよかった。
「子ども時代は、路地裏で遊んだり、年ごろになってからは、恋の話も打ち明け合ったり。やっちゃん(泰子さん)は私にとって、誰よりも心を許せる存在でした」
小学校から高校まで、入江さんは私立の一貫校に通い、泰子さんは地元の公立学校に通った。姉妹で進路が違ったのは、「父の羽振りのいい時期が、たまたま私の学校の節目に重なっただけ」と笑う。
「だから、妹が高校受験のときは、勉強を見てあげたりと、できる限り応援しました。父の仕事がうまくいかず、家が大変だった時期も、やっちゃんがいれば心細くなかったし、たぶん、妹も同じだったと思います」