伝説の「高速スライダー」男、伊藤智仁の足跡 ヤクルト一筋の人生25年、知られざる物語

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しかし、野球の神様は伊藤にさらなる試練を与えた。右ひじが徐々に回復しつつあった2年目の春のキャンプではさらに右肩を故障。結局、2シーズンを棒に振り1996年に復帰。翌1997年にはリリーフ投手としてチームの日本一に貢献し、カムバック賞も獲得した。それでも、その後の伊藤智仁のプロ野球人生は苦難の連続であった。

1999年には血行障害のために右肩にメスを入れた。右腕は常に冷たく、血圧測定ではまさかの「0」が記録されていた。そして、2001年にも再び右肩を手術。手術をしても完治の保証は何もなかった。それでも、「何もしないよりはましだ」と一縷(いちる)の望みに賭けたのだった。

この頃になると、世間を驚愕させた「93年の閃光」はすっかり影を潜めてしまっていた。プロ9年間で3度の手術。たぐいまれなる可動域を誇っていた右肩だからこそ生み出された高速スライダーは、その半面、故障を誘発しやすいのも事実だった。

たび重なる故障に苦しみ、ついに現役を引退

そして2002年オフ、伊藤は戦力外通告を受けた。しかし、本人はなおも現役続行にこだわり、古田敦也、宮本慎也らチームメイトの支えもあって、球団は伊藤と再契約を締結。年俸8000万円から1000万円への大幅減額に世間は驚いた。それでも、彼は「現役を続けられるのであれば金額など問題ではない」と復帰に向けての意欲を見せた。

しかし、2003年も一軍はおろか二軍での登板機会を得ることすらできなかった。懸命のリハビリを繰り返してもなお、彼の右肩は手の施しようがなかった。シーズンオフのコスモスリーグ(2軍チームによるオープン戦)で最後のマウンドに立った。すでに引退を決意していたラスト登板。その球速はわずか109キロだった。もはや、150キロを超える豪速球も、打者をきりきり舞いさせた高速スライダーも望むべくもなかった。

毎年恒例のファン感謝デーで伊藤は最後のあいさつを行った。

「みなさんこんにちは。私は今シーズンで引退します。11年間の現役生活でしたが……」

ここまで言うと彼は涙ぐみ、少しだけ言い淀んだ。

「……その半分がケガとの闘いだった気がします。再びマウンドに帰ってこようと、自分なりに精一杯努力したつもりです。歯がゆいとき、苦しいとき、もちろんありました。そんなときに僕の心の支えになったのが、“野球をやりたい、野球を好きだ”という気持ち、そして大切な仲間、家族、ファンの声援でした。支えてくれたチームメイト、球団関係者、スタッフ、家族、そして、ファンのみなさん、本当に、本当にありがとうございました」

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