「底辺芸人」が唯一無二の役目を見つけるまで コラアゲンはいごうまんの"巡業人生"

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コラアゲンのネタの特徴は、過激な話だけで終わらないこと。取材で出会った人々のキャラクターや、人間味あふれるやり取り、コラアゲン自身の感情の変化などが語られ、人間ドラマとして展開されていく。抑揚をつけた話芸も巧みで、観客はその世界にどっぷり浸り、爆笑したり、涙を浮かべたりしている。

「コラちゃん、めちゃくちゃよかったよ! 友だちを初めて連れてきたんだけど、泣いちゃったって!」

「ホンマですか、光栄ですわー。今日はありがとうございます、お体に気をつけてくださいね」

約2時間半のライブ終了後、コラアゲンは一人ひとりと言葉を交わし、丁寧に見送る。まるで、来てくれた友人を見送るかのような距離の近さだ。一般人からすると、芸能人は手が届かない存在だが、コラアゲンの場合はまったく違うのだ。これも彼のライブの特徴だろう。

こういったコラアゲンの芸風や活動場所、観客との関係性など、狙ってできたものではない。すべては「売れない」から生まれたものだった。

コラアゲンが芸人を志すようになった背景には、通称「リアルなまはげ事件」という原体験がある。1969年、京都に生まれたコラアゲン。父は教育熱心で、京都大学に行くことを期待され、進学校に入学したが、勉強についていけず落ちこぼれるように。あるとき、酒に酔って不満を爆発させた父に、包丁を持って追いかけられた。止めに入った母の手に包丁が刺さり、母は泡を吹いてひっくり返った。

その悲劇を浄化させたのが笑いだったという。

家庭での壮絶体験が、芸人を目指す原点にあった(撮影:今井康一)

「学校で面白おかしく話したら、周りが笑ってくれたんです。心の痛みをそらす手段として、嫌なことを笑いに変えたら楽になった。お笑いへのあこがれというより、自分の人生において、笑いが必要だと思った出来事でした」

元相方・蛍原徹が売れていく中、靴磨きをする自分

高校卒業後の1988年、コラアゲンはNSC(吉本総合芸能学院)に入学。そこで同期の蛍原徹(現・雨上がり決死隊)とコンビを組んだ。しかし卒業後、考え方の違いから解散。コラアゲンはオール巨人へ弟子入りし、蛍原は雨上がり決死隊を結成。その後、蛍原がスター街道を歩んでいったのは、誰もが知るところである。コラアゲンは、蛍原とのコンビ解散とその後の明暗を「人生の象徴的な出来事でした」と振り返る。

「僕が巨人師匠の弟子として、なんばグランド花月に行って、衣装にアイロンをかけているでしょ。すると蛍原君が、スタジオ収録でやって来るんです。同じ花月でも、来ている目的が大きく違って。光の当たっている元相方のそばで、僕は師匠の靴を磨く。あれはきつい時期でした」

コラアゲンは約2年で弟子を卒業する。そして吉本所属の芸人として活動していったが、売れる気配はなかった。そこで吉本を離れ、東京に出ることを決める。層が厚い大阪では埋もれてしまったが、東京なら活躍できるだろう、と考えたのだ。1999年に上京し、芸能プロダクションを片っ端から回ったが、当時30歳のコラアゲンはまるで相手にされなかった。

「どこの事務所も、テレビで活躍してくれるタレントが欲しいんです。なぜならいちばん儲かるから。すると僕なんか論外で。ネタはまぁまぁ面白い、でも飛び抜けるほどではない。それに(テレビ映えする)華やかさもないですから。19~20歳ならまだしも、30歳にもなってたし、これ以上の伸び代もないだろうと」

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