そもそも資源・エネルギーの制約があるので、誰でも欲しいものが何でも欲しいだけタダで手に入るという世界は永久に実現しないのかも知れない。ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房、2014)が警鐘を鳴らしたように、AIやこれを使った生産設備を保有している人たちとそれ以外の人たちという資産格差が、所得や寿命などの格差を拡大再生産していってしまうおそれもある。
長期停滞の背景には富の一極集中があるとエイヴェントは指摘する。確かに、20世紀半ばに工業化が進む中で格差が縮小したのは、経済的な必然の結果ではなくソ連などの計画経済国家という脅威の存在や、大恐慌の影響でさまざまな制度の変革が行われたことも大きな要因だったと考えられる。
「神の見えざる手」に任せておけば?
AIが人間の能力を超えていけば、生産を行うためにはどうしても人間が必要だという前提が崩れ、労働者は生産性(厳密には限界生産性)に等しい賃金を得るとか、生産の中から労働者が受け取る割合である労働分配率はほぼ一定であるとかいう世界ではなくなってしまうはずだ。「正統派経済学の終焉」という主張が、現実のものとなるかも知れない。
ノースウエスタン大のゴードン教授など技術進歩の速度低下を指摘する声は多いが、むしろ社会変化の速度は速くなっているように見える。親の経験は子供たちが将来を考えるにはまったく役に立たず、制度や人々の生活スタイルや考え方、行動が社会変化について行けないほどだ。
テグマークの言うように、AIの発展を未来の社会にとって良いものにするためには、これをどう受け止めるのかという議論が必要だ。デジタルエコノミーの発展は人類に想像できないような豊かさをもたらすことができるはずだが、それは神の見えざる手に任せておけば自然に実現するというものではないだろう。
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