下級武士から東京の首長になった男の立志伝 マッカーサー道路を策定した後藤新平の暗闘
議会の反対に遭い、不完全な予算しかつけてもらえなかった帝都復興院はすでに存在意義がなくなっていた。そのため、すぐに迷走を始める。発足からわずか半年後には不用の存在になり、政府は廃止を決定した。帝都復興院は内務省の一部局に格下げされ、復興事業は内務省が引き継いだ。
解体された後も帝都復興院には悲劇が襲った。復興院消滅後も主力メンバーは引き続き内務省復興局で復興事業を担当していたが、区画整理事業の土地売買にからむ汚職事件が明るみに出たのだ。同事件では、十河信二や復興院で土木局長を務めた太田圓三が逮捕された。十河は無罪を勝ち取ったが、太田は判決が出る前に獄中で自死している。
アジアを繫ぐ大放送局
帝都復興院を追われた後藤は、再び東京市長に推薦されるも辞退し、新たに設立された社団法人東京放送局(現・NHK)の総裁に就任する。後藤は初入閣時に逓信大臣に就任し、電信・電話の普及に努めた過去がある。そうした電波行政の手腕を乞われての総裁就任だったが、そうした経歴以上に後藤はラジオにメディアとしての有望性を感じていた。
関東大震災は東京のみならず日本全土を不安のどん底に陥れたが、その原因は誤情報による市民の混乱も大きかった。政府は情報提供の重要性を認識し、広く国民に情報を流通させる情報伝達手段を模索し、後藤はその役割をラジオに求めた。そうした事情から、ラジオ局の開局に奔走する。当時、ラジオの契約者数はわずか3000。一般に普及しているどころか、ほとんどの人がラジオというものを知らなかった。
そんな状況でありながら、なぜ後藤はラジオに着目したのか? 後藤は台湾統治時代から新聞社への情報統制を強化していた政治家の一人だった。さらに、虎ノ門事件で正力松太郎が責任を取って辞職すると、読売新聞を立ち上げるための金銭援助までしている。
後藤の援助によって立ち上がった読売新聞は、正力の天才的な経営により部数を拡大していくが、読売新聞は政府に批判的な新聞に対抗する大勢力になっていく。新聞というメディアの力を心底知り尽くしていた後藤だけに、ラジオの立ち上げでも同様の狙いがあった。ラジオなら瞬時にして電波を遠方にまで届けることができる。情報伝達のスピードは、新聞の比ではない。
後藤は東京どころか日本国内の枠を越えて、東洋大放送局を構想。同構想は台湾・朝鮮・満洲などを放送エリアとし、日本のラジオを世界に流そうと試みたのだった。東洋大放送局構想は実現しなかったが、没後に日本政府は台湾にラジオ局を設立。それを皮切りに満洲、ハワイ、北米へと日本のラジオ局は進出した。これら電波網は、太平洋戦争でフル活用された。
晩年、後藤は講演活動で地方を回る多忙な日々を過ごした。地方都市を回る強行日程は高齢の身を蝕むことになり、昭和4(1929)年に岡山県へと講演に向かう特急列車内で脳溢血を発症。そのまま帰らぬ人となった。皮肉なことに、後藤が没した翌年に政府は帝都復興が完了したことを宣言。東京市は奉祝事業を催し、東京市内にはお祝いの花電車が運行された。
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