下級武士から東京の首長になった男の立志伝 マッカーサー道路を策定した後藤新平の暗闘

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それでも、都市計画法が成立したことで都市計画が推進されることになる。後藤は官職を辞して拓殖大学の学長に転任。学長・後藤は都市計画の重要性を啓発するために、都市研究会や建築学会が主催する勉強会や講習会に顔を出した。

後藤の全国行脚は実を結び、内務官僚のみならず、各地で開催された後援会の様子を新聞社などが発信することで市民にも都市計画の重要性は周知されていく。若い職員や技術者などが都市計画の重要性を認識するようになり、後年、後藤の薫陶を受けた職員たちが知事や市長に就任し、各地で機能的な都市がつくられていった。そして、東京を筆頭に横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市で都市計画による近代都市づくりが始まる。

“都市をつくる”という理念を抱く後藤の人気は沸騰し、後藤を渇望する声は、日に日に高まりを見せた。そして、財界からも後藤を東京市長に推す声が出始める。当初、東京市長への就任を固辞していた後藤だったが、財界の重鎮・渋沢栄一に懇願されると断り切れず、ついに東京市長に就任する。

大正9(1920)年末、後藤市政が発足。補佐役として永田秀次郎、池田宏、前田多門の3名が助役に起用された。3人の名前に「田」があり、後藤が「市政は3人に任せておけば宜しい」と言ったことから後藤市政は「畳屋」(※畳の旧字は、田が3つあることに由来)と形容される。市長に就任した後藤は、満を持して東京の改造計画「東京市政要綱」を発表。これは当時の金額で総額8億円にも上る壮大なプランだった。

関東大震災勃発

市民からの絶大な待望論を受け、後藤新平は華々しく東京市長に就任した。しかし、それまでの辣腕が噓(うそ)のように、後藤は思うような結果を残せずに市長職を去った。というよりも、東京市長は1期4年で次の市長に交代するのが通例だった。そのため、後藤のような計画を策定して、それにのっとって都市づくりを進めるという政治手法は当時の市長には適していなかった。

後藤は何事も調査・研究する性格だったため、在任時に東京市の頭脳となる東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)を設立。シンクタンクという考え方がまだ薄かった時代に設立された東京市政調査会は、その後の東京市政をリードし、現在は東京のみならず各地の自治体からも信頼されるまでになっている。結局、東京市長として東京の改造を考えていた後藤は8億円の壮大なプランをブチあげ、インフラ整備の道筋をつけるだけにとどまった。

後藤が市長職を去ってから半年も経たないうちに、関東大震災が発生する。関東大震災で首都・東京は壊滅的な打撃を受けた。浅草のシンボル・凌雲閣は倒壊し、人口が密集していた下町は地震後の火事によって焼き尽くされた。当時の東京の人口は、230万9000人。そのうち133万人、58パーセントの市民が被災している。震災翌日、山本権兵衛内閣が発足。後藤は内務大臣として入閣し、震災から東京を立て直すための帝都復興院の総裁も兼任する。今度は国政から東京を再建するという役割を与えられたのだ。

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