下級武士から東京の首長になった男の立志伝 マッカーサー道路を策定した後藤新平の暗闘

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そこで、政府は東京の市区改正を検討した。市区とは、当時の言葉で“都市”を意味する。市区改正とは、現代で言うところの“都市改造”“再開発”ということになる。「政財界の重鎮が集まり、東京をどのように改造するのか?」といったことが話し合われた。

話し合いの結果、市区改正で家屋の不燃化・道路の拡幅・上下水道の整備を重点的に進めることが決められた。市区改正の重点メニューのうち、特に急を要するものが、上下水道の整備だった。江戸時代、各地の為政者をもっとも悩ませたのは“水”の確保だった。当時、水はかなりの貴重品だったため、水源地は幕府御用林として厳重に管理された。容易に人が立ち入ることは禁止されており、それは明治に移っても変わらなかった。

そこまで貴重な水でありながら、明治時代に入っても衛生的な水を確保する概念は希薄だった。生活用水量を確保するまでは意識が届いても水質を保つというところまでは考えが至らない。富国強兵を急ぐ明治政府には、国家予算を“水”に回すことなど、とうてい考えられなかった。しかし、明治19(1886)年に東京の大水源だった玉川上水で、コレラが発生する。

東京・横浜を中心に万人近くの死者を出す大惨事になったコレラによる災禍は、東京市民の衛生に対する考え方を一変させた。内務省衛生局のリーダー・長与専斎は、そうした世論を受けて上下水道の改良に着手。長与は後藤を上下水道の整備担当に命じ、後藤はお雇い外国人のウィリアム・バルトンの指導を受けながら、東京市の上下水道の整備を進めた。

台湾のアヘン対策

上下水道における功績から後藤は、長与の後任として内務省衛生局長に就任する。周囲からも、後藤は出世街道まっしぐらになると思われた。その矢先、相馬事件に連座したとして、後藤は半年間の投獄生活を送ることになる。無罪判決を勝ち取ったものの、役人としての出世の道は閉ざされてしまった後藤に、大した仕事は与えられなかった。

不遇をかこっていた後藤に、台湾総督の児玉源太郎が救いの手を差し伸べる。日清戦争の勝利によって、日本は台湾の統治権を得た。しかし、台湾のインフラは整っていなかったので、基幹産業は乏しかった。さらに、台湾ではアヘン汚染が深刻な社会問題になっていた。歴代の総督は、このアヘン対策に手を煩わされた。

第4代総督の児玉は、台湾統治を進めるために台湾総督府ナンバー2にあたる民政局長官に後藤を抜擢し、アヘン対策と衛生政策を担当させる。着任直後の後藤は、東京と同様に上下水道の整備から進める。この時、東京の上下水道整備でも活躍したウィリアム・バルトンも台湾にまで招いている。台湾に渡ったバルトンはマラリアに感染して早世してしまうが、バルトンの愛弟子・浜野弥四郎が後を引き継いで台湾の上下水道整備を進めていった。

上下水道の整備で結果を出した後藤は、次に台湾の産業を振興させるために台湾銀行の設立に奔走する。台湾銀行の設立によって、台湾の農業は大規模化し、今で言うところの“6次産業化”へと進化していく。特に、台湾の製糖業は日本への輸出で大いに活況を呈した。さらに、産業活性化に欠かせないインフラとして鉄道と港湾の整備も始めた。医者出身の後藤ではあるが、鉄道分野にも明るく、鉄道が経済成長に必要なインフラであることを熟知していた。

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