ビームス社長「NIKEを売るのは大冒険だった」 「日本にナイキを紹介した男」を知ってますか

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当時のナイキの商品のひとつにローラースケートのついたスニーカーがありました。私たちはそれを取り扱っていましたが、ぜんぜん売れない。次の商品が仕入れられないからと、私が自分で買ったほどです(笑)。

ローラースケートがついたナイキのスニーカー(撮影:今井 康一)

ちなみに、そのスニーカーはいまでも社長室に飾ってあります。数年前、当時のナイキ社長がビームスのショップに来訪したときに、このスニーカーを履いて出迎えました。この商品が現存していることに驚き、喜んでくれました。

――どうして知名度の低かったナイキに注目されたのですか?

ビームスがオープンする少し前、アメリカではベトナム戦争が終わり、若者の生活が変化した時期でした。それまで、ジャズやソウルなど「夜の世界」を感じさせるサウンドが流れていたのが、「ホテル・カリフォルニア」のような明るい「昼の世界」のサウンドがはやりはじめた。そして、青い空の下若者たちがスニーカーを履いてランニングやスケボーを楽しみ、サーフィンをするようになりました。

いわゆる“アメリカ西海岸のライフスタイル”です。それまではランニングなどは、アスリートやちょっと変わり者がやるものというイメージだった。それが、いつのまにかクールなものになって、ライフスタイルのひとつとして取り入れられるようになっていったんです。

「ニケ」を探しにアメリカへ

設楽 洋(したら よう) /ビームス、ビームス クリエイティブ代表取締役。1951年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、電通入社。プロモーションディレクター、イベントプロデューサーとして活躍し、広告電通SP賞、イベントプロデュース賞受賞。 1976年、父である設楽悦三の立ち上げた「BEAMS」設立に参加し、原宿にわずか6坪のショップ、「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」をオープンする。1993年に初の大型店、BEAMS TOKYO(ビームス東京)を渋谷にオープンする。2016年にBEAMS JAPANで毎日ファッション大賞特別賞、2017年には動画「TOKYO CULTURE STORY」でCLIO FASHION&BEAUTYシルバー、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド受賞(撮影:今井 康一)

ちょうど日本でも学生運動が終わり、そうしたライフスタイルを取り入れようとする空気が流れました。まだファッションでは、アイビーが主流だったころです。ビームスがオープンしたのと同じ年、『ポパイ』というファッション誌が創刊されました。

『ポパイ』を出版した平凡出版(現・マガジンハウス)に私の学生時代の友人だった小黒一三君がいて、彼から、「アメリカでニケというスニーカーがはやっている」という情報を聞きました。「じゃあ、ニケを探そう」とアメリカに買い付けに行ったのです。その後、ニケではなくナイキと発音することを知りました。当時はもちろんネットもない時代で、それほどに情報がなかったのです。

まだナイキと直接の取引ができなかったので、アメリカの小売店でまとめ買いをしていました。たくさん買うことで、値引きをしてもらって安く仕入れようとしたんです。でも、アメリカでもまだナイキはスポーツ選手が履くもので、一般向けに売っている店が少なかった。苦労して店を探し出して、大きなカバンにいろんなサイズのコルテッツなどのスニーカーを大量に入れて日本に持ち帰っていました。並行輸入のはしりですね。

時には税関で怪しまれることもありましたね。なんでこんなに靴を買っているんだ、って。「私たちはサッカーチームの関係者で、これはうちの選手が履くものだ」なんて言い訳したこともありました(笑)。

それが今では、ナイキは世界的なブランドとなり、当社も正規に取引をするようになりました。昨年にはBEAMS創業40周年記念として、「NIKE AIR PRESTO」というコラボシューズも発売しました。当時と比較すると、非常に感慨深いものがあります。

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