ビートたけしがカツラをネタにしまくる理由 芸能界の大御所はひたすらリアルを追求する

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たけしの映画では、拍子抜けするほど簡単に人が次々に死んでいく。死ぬ間際に感動的な捨て台詞を残したりはしない。また、ケンカなどの暴力シーンでも、大抵は一瞬で片がつく。延々と殴り合ったりすることはほとんどない。現実の暴力が振るわれる場面では、そのような悠長なやり取りが行われることはないからだ。

そう、リアリティを何よりも重視するたけしにとって、カツラに隠された頭部こそが「リアル」なのである。カツラで隠されていない頭には「欺瞞」がない。だからこそ、たけしはただの薄毛には関心を持たないのだ。

人間の弱さを笑って肯定する「優しさ」の裏返し

たけしのカツラネタの餌食になる芸能人は、ほぼ例外なく「カツラだとうわさされている人」である。本人がカツラであることを公に認めている場合には、ネタにする余地がないからだ。あくまでも「カツラ芸能人」ではなく「カツラ疑惑のある芸能人」というグレーな状態にとどまっている人だけが興味の対象である。

たけしともかかわりの深い落語家の立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と言っていた。人間は弱くて情けないものだ。そんな人間の弱さを肯定するのが落語の役割なのだ、というのが彼の持論である。たけしがカツラネタをこよなく愛するのも、そこに「人間の業」が感じられるからではないだろうか。

たけしがカツラのことを楽しそうに語るとき、カツラをかぶっている人を単にあざ笑っているわけではない。それに象徴されるような人間の業の深さを笑っているのだ。「ざまあみろ」ではなく、「しょうがねえなあ」の感覚である。

カツラとはその場しのぎの対応にすぎない。しかし、真実から目を背けて、その場しのぎに頼りたくなってしまう瞬間は誰にでもある。真実はまっすぐ見つめるにはあまりにもまぶしすぎるからだ。ひたすらリアルだけを追い求めるたけしの「残酷さ」は、人間の弱さを笑って肯定する「優しさ」の裏返しでもあるのだ。(敬称略)

ラリー遠田 作家・ライター、お笑い評論家

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らりーとおだ / Larry Tooda

主にお笑いに関する評論、執筆、インタビュー取材、コメント提供、講演、イベント企画・出演などを手がける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)など著書多数。

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