肉声が明らかに…宮崎勤元死刑囚「本当の姿」 私たちはだまされていたのか?
埼玉県内で連続して3人の少女の行方不明ということもあり連続誘拐事件の可能性が高いとメディアも沸騰していた。そして数日後、事件は最悪の事態となる。埼玉県の山林から全裸で手足を縛られた状態のCちゃんの遺体が見つかったのだった。
年が明け昭和から平成となった1989年2月、Aちゃん宅に<A(少女の名前) 遺骨 焼 証明 鑑定>と書かれた紙片と骨片などが入った段ボールが届き、Aちゃん事件に関して「今田勇子」の名で朝日新聞東京本社に犯行声明文、その後に告白文もそれぞれ届いた。これを受けてメディアの報道合戦は過熱していく。そして1989年6月、東京・江東区の団地に住むDちゃん(当時5歳)が行方不明となり、数日後、埼玉県飯能市内にある霊園内で頭部、両手足が切断されたDちゃんの遺体が見つかった。
「あの時逮捕されていなければ事件は続いていた…」
1989年8月、事件が動く。東京・八王子で少女への強制わいせつ事件で逮捕された男がいた。それが当時26歳だった宮崎勤元死刑囚だった。少女の裸の写真を撮ろうとしていたところを少女の父親が捕まえたのだ。
この事件に関心を持った警視庁は捜査一課の刑事に取り調べを行わせ、Dちゃん殺害の自供に至る。しかし当初、連続誘拐殺人事件とは関係ないと思われていた。実は宮崎元死刑囚が乗っていた車と、事件で目撃されていた車の種類が違っていたのだ。これは最終的に目撃者の見間違いだった、となるのだが捜査員たちの多くは車が違うことで犯人ではないのではないか、という考えがあったという。
しかし丹念に調べを行っているうちに捜査員は宮崎元死刑囚が犯人であると確信する。そして自供に至り事件が全面解決していくのだった。当時捜査に加わっていた元捜査員が語る。「最初はホシじゃないと思っていた。もしあの時、彼が捕まっていなければ、第5、第6の事件が起きていただろう」。まさに、紙一重の差だった。
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