「あんた、努力したの?」と追い払う前に
今回は非常に多くある悩みごとであって、しかも相談しても誰もまじめに取り合ってくれない、というとても厄介な事例です。だいたいの人は、今回のような相談を前にすると「あんた、本当に努力したの?」とか、「そうは言っても、ちゃんと大学院にも入って、(第1志望でなくても)企業の内定ももらったんだから、それ以上高望みしなさんな」とか、「人生これから何が起こるかわからないんだから、まあ気長に構えていなさい」……という安直な答えを持ってきて追い払います。
しかし、一見「高望み」であり「わがまま」な問題だからこそ、そして誰も相手にしてくれない「個人的悩み」だからこそ、こういう問題は「内面化」して本人をジワジワむしばんでいくのです。
だいたい、人生相談する人の悩みは(他人の目には)「些細なもの」がほとんどであって、大量殺戮をし、いま逃走中だがどうしたらいいのかとか、わが国を(仮想)敵国に売り渡したいのだが、いつが潮時かとか、総理大臣はじめ全閣僚を暗殺したいが、どうしたらいいのか……という「人生相談」は、まあないのです(あっても答えられない!)。
私はかつて書いたことがありますが(『うるさい日本の私』日経文庫)、「個人的な些細な悩み」は、原理的に解決ができないからこそ、哲学が向き合う必要があると考えます。災害対策をどうするか、高齢者の福祉をどうするか、年金支給をどうするか、保育園の拡充をどうするか……など、世の中で議論されている悩みのほとんどは、社会的悩みです。
これらが重要でないとは言えませんが、社会的悩みは、議論することが許され、みんなが真剣に受け取ってくれるだけ「健康な悩み」、あえて言えば「気楽な悩み」であり、そうした悩みには政治家、官僚、社会学者、経済学者、政治学者、評論家……が総出で考えてくれるから、彼らに任せておけばいい。
哲学者(少なくとも私)は「みんなが些細なこととして鼻先であしらう」からこそ、「いかなる解決もできない」からこそ、しかも「悩みは消えない」からこそ、その不条理に興味を持ちます。私がかつて挙げた例は、身長155センチメートルの男がいたとして、(多分)その男にとって自分の「背の低さ」より深刻な問題はないであろうというものです。いわゆる「身体障害者」なら、特権的被差別者として社会的に手厚い保護がされるのに、彼に対するいかなる社会的保護もない。彼はこの深刻な問題を問題でないかのような顔をして一生過ごさねばならない。これはたいそう残酷なことです。
そして、こうしたことは、学力偏差値が40の青年、誰が見てもきわめて醜い少女など(私は彼らを「平均値のうちのかなり下位にある者」と呼びました)、みなその悩みの深いことに気づきながら、いかなる解決もないことを知っているゆえに、「そのまま」にしておきます。こうして「個人的な些細な悩み」は社会の水面下に身を隠してしまうのです。
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