マイノリティは理解よりも共生を求めている 放送界のダイバーシティを検証する

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つまり、よくよく考えるとやはりこれはマジョリティ側の論理そのものなんですね。孤立するかしないかは、当人(被差別側)の意思ではなくて、問題は孤立させるかさせないかなんですが、多数派に今までの偏見に対する反省を促す方向に持って行くとハレーションが起こるから、こういう物言いになるんです。でも、それを超えない多様性って何なの?という疑問は、根本的に残るわけです。

もう一つ、多様性の文脈で「理解」という言葉が出てきます。私は「理解」と「共生」というのは、全然別の次元の話だと思っています。なぜなら、理解しないと共生できないわけではないからです。ともすると危ないのは、理解するのはいったい誰かと。これもまた同じように、マイノリティ側ではなくマジョリティ側なんです。そうなると、マジョリティの感覚でマイノリティを解釈する、言い換えれば少数派を多数派の言語に置き換えるということが、理解なんです。

それはつまり、マジョリティが納得できるマイノリティ像を作るということであって、納得できないマイノリティはダメだということを、暗に意味しているのではないか。結局それは、同化の方向に誘導するだけの話ではないのかと。こういう話は、差別問題には付きものともいえるもので、沖縄や在日の問題でも同じです。たとえば大阪にいる沖縄人が差別を受けてきたと。そうしたときに沖縄人はどういう行動を取ったかといえば、一昔前は革新政党の側に付くというのがありました。差別問題を固有の問題としてではなく政治問題、階級闘争に置き換えるというスタンスです。まぁ、階級闘争に勝利すれば差別はなくなるというのは幻想にすぎないんですが、そういう方向に行く人は一定程度いたわけです。

それから、著しく自分の出自を隠す人もいて、また自分たちのコミュニティに引きこもるという人もいました。それはなぜかというと、自分たちのコミュニティのほうが楽に生きられるからなんです。人に理解してもらおうとすると、どうしても「納得してもらえるような自分像」を作らざるを得なくなるので、それが面倒だと。在日の一部の人たちなどは特にそうですね。

そうしてみると、理解ということの危うさが浮かび上がってきます。理解してもらうに越したことはないけれども、マジョリティ側が「理解できる」と断言することは、やはり問題をはらむことになります。

理解できなくても共生することはできる

たとえば日本人が朝鮮の文化を完全に理解することは、たぶん無理な話です。沖縄でもそうでしょう。LGBTともなればかなり難しいと思います。だから、別に理解しなくてもいいんだと思うんです。問われているのは理解するかしないかではなくて、一つのシステムのなかで同じ権利を有するかとか、あるいは共存、共生できるかでしょう。私は理解しなくても共生はできると思います。「よくわかんない人たちだけど、まぁいいか」みたいに。お互いに攻撃を仕掛けないかぎりにおいては、それでいいわけですよ。無理に理解という言葉に置き換えて強調すればするほど、「善意の暴力」になりかねないと思います。

マイノリティの人たちは、理解よりむしろ共生を求めているんだと思います。ですから、共生のための工夫がもっと必要なんです。

ただ一方で、マイノリティのなかにも、マジョリティに理解されようとする人はいて、ある種の分断が起こるわけです。自分たちのアイデンティティを守ろうとすると、ある程度引きこもらざるをえないが、引きこもりっぱなしというのはよくないから、表向きは共生という方向によって理解を求めていくことになるんですが、実際はなかなか大変なことです。

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