漫画家としての経験が浅かったので、連載直前に『ああっ女神さまっ』の藤島康介さんのスタジオにアシスタントに2回(合計10日間)入ることになった。
とにかくアシスタントに来た以上は、すべてのテクニックを手に入れようと思った。背景の描き方から、道具の選び方まで、根掘り葉掘り聞いて基礎は全部教わった。
「今思うとアシスタントに入ってる間に、とんでもなく失礼なこと言ってたと思うんだよね。何を聞いたか具体的には覚えてないんだけど、藤島さんが『数字が答えを出してますよ』って厳しい顔で言ってたのを覚えてる。たぶん『売れてたって意味のないモノもあるんじゃないですか?』とか聞いたんじゃないかな。もう俺は最悪の人間だよねえ。本当に、藤島さんには『ごめんなさい』と今でも謝りたい」
その後めでたく、連載は始まったが、1年で打ち切りになった。
初期の代表作『宮本から君へ』が誕生した
しかし、その後に描いた読み切りが編集部内で評価され、サラリーマンものを描かないか?と打診された。それで始まったのが、初期の代表作『宮本から君へ』だった。サラリーマン時代の経験を大いに生かした物語だった。連載の中で、主人公である宮本が実家を出ることになった。
「その時はまだ実家に住んでた。実家に引きこもって漫画ばかり描いてたから、おカネに困ったことはなかった。プロになっても一人暮らししたいとか全然なかったんだけど、宮本が家を出るなら俺も出ないとまずいなと思ったんだよね」
一人暮らしを始めて、漫画修業時代からの引きこもり生活は終わるかと思われたが、むしろ逆の展開になる。
25歳の時、出版社が主催する年末の交流会に参加した。漫画家が一堂に会する、規模の大きいパーティだ。パーティの翌日、40度の熱が出て3日間寝込んだ。次の年も、その次の年も、その次の年も、4年連続パーティ翌日に40度を超える熱が出た。
「熱の原因は、自己嫌悪だね。若い漫画家同士で飲んでると、つい大きい話をしちゃう。こんなすごい漫画描くんだ!!とか言っちゃって、それで後でひどく後悔する。あと、人にひどいこと言っちゃう癖がある。藤島さんの時もそうだけど。悪意はないんだが、ついギリギリのことを言って波風立たせたくなる。でも実は全然ギリじゃなくて、モロにアウトなことを言っているんだ。『寄生獣』の岩明均さんと会った時、内容は忘れてしまったのだけど、つい傷つけるようなことを言ってしまった」
次の日、激しい自己嫌悪に陥った。自分が落ち込むのもやだけど、人を傷つけるのはもっと嫌だった。
「本当に今でも岩明さんにも『すいません』って思ってる。謝りたい。その時、心の底から自分は加害者だって自覚して、もういっさい表に出るのをやめようと思ったんだ」
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