ミサイル発射の北朝鮮に圧力だけではダメだ 時間をかけて交渉、環境づくりに努めるべき

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北朝鮮の核兵器開発史は1955年3月、原子・核物理学研究所の設置を決定したことから開始。特に南北が競争関係にあった1970年代には、南北共に核兵器の開発競争に突入した。韓国は極秘に開発しようとしたものの、露見し、米国など国際社会からブレーキをかけられた。が、北朝鮮には、ブレーキをかけられなかった。旧ソ連との原子力開発関連協定に従い、旧ソ連に派遣された北朝鮮技術者は毎年数十人ずつ増加。1970年代に彼らに技術を伝えた旧ソ連の核物理学者は、当時の北朝鮮技術者らについて、「まなざしが彗星のように輝いていた」と振り返る。

第2段階は、1990年代から2012年で、核兵器の開発を本格化させた時期だ。1991年の旧ソ連崩壊によって、北朝鮮はCIS(独立国家共同体)国家出身の核物理学者を確保。このときから北朝鮮の核兵器開発は本格化したようだ。1993年の第1次核危機当時、米国が要求する特別査察の受け入れを北朝鮮は拒否し、NPT(核拡散防止条約)脱退も宣言した。IAEA(国際原子力機関)の査察団もすべて追放されたため、北朝鮮の核開発を抑制できない状況となったのである。

2004年ごろ、金正日総書記が北朝鮮の国家保衛部(現在は国家保衛省)に下した非公開の指示文によれば、「われわれはようやく、安心して眠れるようになった。この開発に功績が大きい旧ソ連の学者をきちんともてなせ」と言ったという。

徐々に高度化、水素爆弾実験も

2005年2月10日、北朝鮮は「核兵器保有」を宣言した。そして2006年10月と2009年5月に、1回目と2回目の核実験を行った。さらに2010年5月には核融合実験に成功したと発表。そして2011年12月に金正日総書記が死亡する。北朝鮮の核問題の第2段階が終わろうとした時期だ。

第3段階は、2012年から現在に至る、金正恩時代が幕を開けてからだ。第1~第2段階までに準備された核兵器能力を基盤として、党の政策を根底から変化させ、核保有国という地位を確保するための行動を絶えず国際社会に誇示してきた。2013年2月に核融合実験と北朝鮮が呼んだ3回目の核実験に続き、2016年1月6日には「水素爆弾実験」とする4回目の核実験、同年9月9日に5回目の核実験を行った。ミサイル開発に関しても、エンジン実験や大気圏再突入実験、小型弾頭開発など、すべての過程を外部に公開したことで、北朝鮮の核能力を国内外に誇示したのである。

2013年に北朝鮮は「経済建設と核武力建設の並進路線」を鮮明にして以降、北朝鮮は陸海空3軍と並ぶ、ミサイル戦略軍を編成・運営し始めた。いわば、守りの段階から、攻めの段階へと入ったことになる。北朝鮮メディアが公開する、金正恩委員長が軍事作戦を指示する写真には、米国全域を目標とする作戦図が映し出された。また2015年12月に金正恩が核実験を認める書類にサインした内容まで公開するに至った。そして2017年にはICBMの2回の発射に成功、ミサイルの移動手段の確保までアピールした。北朝鮮は今後も自らの核能力が高度化していくごとに、外部に公開していくものと思われる。

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