日本人はなぜ「男脳・女脳」に固執するのか 「LGBTQ」の時代がやってきた!Qって何?
芸術とは、人間を表現することです。名だたる音楽家、画家、作家などの芸術家たちがどのような性的嗜好だったかご存じですが? ロリコン、耽美主義、SM嗜好などなど、変わった人たちのオンパレードです。詩人で文芸評論家だったアナトール・フランスは言っています。「あらゆる性的異常の中でおそらく最も奇妙なものが純潔である」と。
あなたは心も身体も、衝動も情緒も、理性も思考も、自信をもって男性(または女性)でしかありえないと断定できますか? 私は「それは無理だ」としか言えません。そうなると私も、Qですね。オセロゲームではありませんが、Qの一手で“行ってQ”じゃなく“オールQ”になっちゃったわけ?!
生物学的な男と女の形状差は明瞭です。発生学的な原型は女性(female)、そこから男性(male)が分化していきます。ホルモンでは男性ホルモン(male hormones)が先行し、酵素の働きで女性ホルモン(female hormones)となります。直訳すれば、maleはオスでfemaleはメスですから、日本語はやわらかい表現をしますね。でも、内分泌液を性別で名付ける意味があるかは疑問です。人間の身体は――女性であれ男性であれ――2つのホルモンを併せ持ち、絶妙なバランスでキープすることで生命を保っているのです。
精神医学的に考えれば、男女は截然と分かたれる存在ではなく、それぞれの殆どが亜型と分類されます(男は純男の亜型であり、女は純女の亜型ということですね)。まさにLGBTQの証明となります。
したがって、私の提案ですが、あえて名づけるとするならば、女性ホルモンは優雅(エレガント)ホルモン、男性ホルモンは勇敢(勇気)ホルモンとでもしたらいかがでしょう?
脳の男女差にしがみつくのは逃避でしかない
世の中では「おとこ脳・おんな脳」というフレーズがまだ流布しています。脳の男女差についての英国での研究結果(2015)によれば、6000件を超えるMRIの解析などから、男女の脳に際立った違いはないと結論づけています。どれも中間的でしかないと。イスラエルの研究でも同様の結論です。
男女の脳差としては、脳梁の太さが挙げられますが、これは1980年代の論文における男性9人、女性5人によるデータからの結論です。その後、追試による証明はされていません。
現代の「おとこ脳・おんな脳」で語りたがる風潮は、文化的風土にしがみついた価値観と、「男女は違っていて欲しい」という淡い希望の反映なのでしょう。あるいは、人格の陶冶を放棄して、2つしかない集団のどちらかに逃げ込んで埋没することで安堵感を得るため、とも考え得るのです。
私は、「男女差を意識しない凛々しさ」を機会あるごとに訴えています。男女差よりも必ず個体差の方がはるかに大きいのです。「男だから○○なのだ」「女なのだから○○しなきゃならない」などと一括りできるはずもありません。自分を大きな母集団の一員と位置付けて、集団の大きさにもたれかかって安心するのは自己を貶めているのです。似て非なるものを似非(エセ)と言いますが、似非科学である血液型別性格診断がなかなか廃れないのは、突き詰めていけば弱体化する日本経済の反映しているかのようです。
「だからこそチャンスなのだ」と若い人には言いたいのです。世界はモノクロではありません。男が勇敢なのは当たり前、女が優雅なのも当然です。そのうえで、「勇敢な女たれ! 優雅な男であれ!」。それこそ、センシュアルです。これからの時代のあらゆる競争に打ち勝つキーとなるに違いありません。
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