貧困や虐待に苦しむ子をどうしたら救えるか 理解してくれる大人と社会の受容が孤立防ぐ
小澤:また、特に幼少期の時は子供は親を通して社会とつながっているので、子供と直接出会える人が保健師さん、保育士さん、小児科医さんだと思うんですね。そこがアウトリーチの機会としてうまく機能しながら、必要なところに、必要な人や機会という資源をつないでいくことで危機が予防されたり、子供の世界を広げていける可能性もある。
小学校を経て、思春期に、子供自身が社会の中で自分自身の役割や居場所を探していく時に、学校がもしそういう居場所にならなくても、ちゃんと自分自身の可能性を発揮できる場所や、つながりがあったり、そこに理解してくれる人がいるという介入の仕方もあるんじゃないかなと思います。
オルタナティブを作っていきたい
堀:まさにPIECESの活動そのものですね。あともう一点、結構興味深いワードだと思ったのが、「メインストリームとは言えない生き方でも認められるべき」というのは具体的にどういう状況の話ですか?
小澤:例えば、どうしても実親の元で過ごすことが難しい状況の子もいると思うんですね、親御さんが例えば事故でなくなられたというのも含めて。学校に行かないという選択をしてる子供もいると思うんです。
そういった子が、里親さんや養父母さんの元で、養護施設で育っている時に、誰もに実の家族がいるはずだという前提の社会の価値観だったら、これはあくまで例えばですけど、学校での教育や会話が、家族で育つべきだよね、親に感謝すべきだよね、っていう観点しかなかったら、苦しい子供もいるんじゃないかなと。その価値観により自分の人生を否定的に捉えてしまう子もいるかもしれない。
これは、学校に行っていない子供たちが、別のことをしていたり、フリースクールに行っているとして、社会の中に学校に行くべきだよね、行かないのおかしいよね、という価値観しかなかったら、という問いにも同じことが言えるのですが。
子供たちってものすごく周りのことを見ていて、社会のことを見ている。だからこそ、社会や、身近な大人の無意識な押し付けによって、傷ついたり、自己否定してしまうことがあるのではないかな。もちろん子供たちには、乗り越えていく力を持ってはいます。
ただ、そもそも、先程お話ししたような環境は実際に実在していて、子供が生きている環境においても、大人の思う「べき」に子供の環境を当てはめるのではなく、画一化した価値観がもうちょっと多様になっていくといいのではないかなと思っています。
堀:すごく同意します。生き方に正解みたいなものが提示されちゃうと、そこに当てはまらないと「不正解なのか」と。そうなってしまうとものすごく可能性を潰してしまうというか。
小澤:そうなんですよね。私たちは、子供たちが、自分でちゃんとその後の人生を選んでいけるように、学校に行っても、行かないという選択を一旦しても、例えば、その後また学校に戻れる道を作ったり、違う道という選択肢を、代替機能として作ったりしていく必要があると思うんです。
「学校に行っていないと、その後生きて行けないよね」となると、学校に行く以外の選択肢がなくなってしまうから。学校機能もそうだし、働く機能もそうだし、そう言ったオルタナティブを作っていきたい、というのが、PIECESの活動につながっています。