街づくりは「役に立たない」文系教育が必要だ ドイツエリートが哲学・歴史・芸術を学ぶ意味
あらゆる科目の授業で顔を出すのが、ドイツを代表する哲学者の一人、エマニュエル・カントだ。倫理、ドイツ語、歴史、経済、社会といった科目には必ず登場し、フランス語を学ぶ授業でも、シャルル・ド・モンテスキューなどとの比較でカントがやはりお目見えする。
さらに、授業の進め方も日本の学校とは大きく異なる。ドイツの子どもたちは、小学校からつねに発言されることが求められ、それが成績にも反映されるのだが、ギムナジウムでは、ほぼ毎日――少なくとも週2~3回は授業の中で活発なディベートが行われるのだ。
たとえば、ある日の歴史の授業で、ナチスの人種主義を取り上げることがあった。ちょうどドナルド・トランプ大統領が就任した時期だったため、教諭はトランプ大統領とナチスを重ねて論じた。すると、ある女子生徒が「就任早々なので、まずは観察すべき」といった趣旨の意見を述べた。すると教諭は、「あなたはナチスをサポートしているの?」と返し、議論が熱くなった。科目は歴史で主題はナチスだが、注目すべきは人種主義をキーワードに、現代まで関連づけた議論が展開されていることである。
A4用紙5ページに「自由について論ぜよ」
テストでは、論述が求められることも多い。英語のテストであれば、ある文学作品に関する見解を論じなさい、という問題が出題されることは珍しくない。芸術のテストでも、絵画表現や建築を社会の変化と関連づけて論ぜよ、といった問題がある。極めつきは、倫理の「自由について論ぜよ」という設問だ。解答用紙はA4で4~5ページあり、アルトゥール・ショーペンハウアーやカントの思想に触れながらたっぷりと論を展開させなくてはならないため、付け焼き刃ではとても太刀打ちできない。
こうしたギムナジウムの教育を見ると、日本でもこうした教育が取り入れられないものかと思う読者諸氏も多いと思う。だが、実生活で「役に立つかどうか」に重きを置いているように見える日本の教育において、「『自由』について論ぜよ」というのをはめ込むのはなかなか容易ではないはずだ。
「役に立つかどうか」を重んじる教育は、近代国家として開発を急いだ明治以来のものだろう。この教育が実際役に立ち、バブル期あたりまでは、国の近代化を進め、経済力を高めることができた。
ただ、「役に立つ」ことのみに価値を置いた教育は、眼前の課題に対する「正解か不正解か」という二択が前提となり、とかく短期的成果を求めるものになりやすい。日本における街づくりを見ていても、眼前の課題に対する対症療法的な議論が目立つ。
一方で、ドイツをはじめとした欧州の都市計画は、長期的な視野が反映されている。前回記事(ピコ太郎が国連版「PPAP」で担った重要な役割)でも紹介したように、「持続可能性」といった概念を先に持ち出し、長い時間をかけて現実をそこに近づけようとしている。こうした発想は、役に立つかどうか、という尺度で測れるものではない。
こうした都市計画の原因療法的なあり方にこそ、哲学、歴史、芸術などの「役に立たない」文系教育の成果が多分に反映されているといえよう。目の前の問題解決を優先することも時には必要だが、主体的で長期的な地方の発展を考えるならば、「役に立たない」教育から得られる発想が重要になることがあるはずだ。
最後に、ナチスとトランプ大統領に関する議論がヒートアップした授業の顚末に触れておこうか。最終的に、反論した女子生徒は泣き出し、教室を出ていってしまった。ちょっとした「授業内の問題」だったわけだが、後日、校長先生がクラスに来てこう言った。「われわれはデモクラシーの国に住んでいます。どんな意見でも自由に述べる権利をあなたがたは持っています」。
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