ハルオミさんは続ける。
「イベントがいくら盛り上がっても、いじめや差別がきっかけで貧困に陥ったり、セックスワークに就かざるをえなかったりするような最底辺の人たちは疎外されたまま。最近のLGBT運動は、同性愛者や性同一性障害者の中での勝ち組と負け組をつくり出してしまっているんじゃないでしょうか」
ハルオミさんは、1990年に同性愛者の団体が東京都から公共施設の利用を拒絶されたことに端を発する「府中青年の家事件」の当事者の1人でもあった。事件は後に裁判に発展。20代の頃、ゲイやレズビアンたちの権利獲得のための運動に情熱を傾けた彼が、現在のLGBT運動と距離を置き、貧困状態に陥るまでに、どんな曲折があったのか。
東京で自営業を営む両親の下で育った。比較的裕福な家庭だったという。幼稚園児の頃から、好きになるのは男の子。妹とは、当時の人気アイドルグループ「光ゲンジ」の中で、誰がかっこいいかという話で盛り上がった。深刻ないじめや差別に遭うことはなかったと言い、高校時代には米国に1年間留学。大学卒業後は都内の私立高校で英語教諭の職を得た。
東京都の宿泊施設「府中青年の家」の利用をめぐる問題に直面したのはちょうどこの頃。ハルオミさんが所属していた同性愛者団体がこの施設に泊まった際、ほかの利用者から「ホモの集団」「またオカマがいた」などの差別発言を受けた。これに対し、都側に適切な対応を求めたところ、反対に「青少年の健全な育成に悪い影響を与える」として、以後の利用を断られてしまったのだ。
この団体は1991年に損害賠償を求めて東京都を提訴した。ハルオミさんも裁判準備や支援集会への参加、海外の同性愛者団体との連携などに奔走。こうした活動と仕事の両立は難しく、英語教諭の仕事は辞めた。当時はバブル景気で、私塾の教師や翻訳などの仕事はいくらでもあり、収入はさほど落ちなかった。しかし、「身分の保証はありませんでしたから、精神的には不安でした」と言う。
表に出せる“正しいゲイ”ではなかった
定職がなくなった分、プライベートと活動の境目はあいまいになった。暇さえあれば事務所の電話番を務め、海外の団体との英語によるやり取りは一手に引き受けたという。一方で、仕事を投げうってまで貢献したのに、団体の中で自分が正当に評価されていないとの思いが、ハルオミさんの中ではくすぶり続けた。
「裏方仕事ばかりで、いいように使われるだけ。まるで便利屋。理由はわかってます。私がめちゃくちゃな恋愛ばかりしていたからです。とにかく相手をとっかえ、ひっかえでした。私は、世間や団体が求めるような、表に出せる“正しいゲイ”ではなかったんです」
いろいろなボタンの掛け違いがあったのかもしれない。公私ともに疲弊したハルオミさんが「少し休みがほしい」と申し出たところ、団体幹部から「(休んだ後に戻ってきても)もうあなたのポジションはない」と言われ、これがきっかけでうつ病を発症したという。
ハルオミさんはこう言って当時を振り返る。「メンバーは滅私奉公して当たり前と言わんばかりの団体にも問題があったし、僕自身、カルト信者のようにのめり込んでいました。活動への思い入れが強かっただけに、あのとき、“もうお前の帰る場所はない”と言われて、目の前が真っ暗になりました」。
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