成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン

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メガソーラーが整備される前の姿(2010年)。北総線の線路の北側(写真左)にある空き地が成田新幹線の建設用地だった(筆者撮影)

千葉ニュータウンが構想されたのは1960年代のことで、1966年5月に千葉県が整備構想を発表。続いて同年7月には、成田市三里塚に新しい国際空港を整備することを政府が閣議決定し、東京都心と新空港を結ぶ「高速電車」の運行も同時に決まった。これが成田新幹線計画の起源になる。

千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。

成田新幹線については、当面、新空港と東京都心とをできるだけ短い時間で結ぶことがおもな使命となるが、途中に1か所だけ、将来のニュータウン予定地に駅を設けることとした(中略)ニュータウン計画当初から、この中に通勤鉄道と高速鉄道のそれぞれ複線分の用地が予定されていたためである。

3つの路線が乗り入れへ

こうして高速鉄道用地は成田新幹線が使用し、通勤鉄道用地には千葉県が運営する「北千葉線」を建設することになった。しかし1971年、京成電鉄もニュータウンに乗り入れる意向を示す。このことで千葉県と京成は対立したが、最終的には両者とも乗り入れることで決着した。

成田新幹線は1969年策定の新全国総合開発計画で盛り込まれ、1971年に基本計画と整備計画が決定。1972年の工事実施計画認可を経て、1974年に着手した。この間、千葉県営鉄道の北千葉線と京成系列の北総開発鉄道(現・北総鉄道)北総線も、1973年に地方鉄道免許が下りた。

国鉄東京第一工事局の機関誌『東工』(1974年3月)に掲載されていた、千葉ニュータウン駅(新幹線)と千葉ニュータウン中央駅(北千葉線)の横断面図(赤字は筆者加筆)。駅舎は一体的に整備することを想定していたようだ
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