成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン

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1973年10月時点の計画ルート。2路線分の鉄道用地(灰色)のうち南側の通勤鉄道用地は北千葉線が使用。北側の高速鉄道用地は成田新幹線と北総線で分け合った(地図ソフト「カシミール3D 地理院地図+スーパー地形セット」で筆者作成)

成田新幹線・北千葉線・北総線の3路線が乗り入れると、鉄道用地が2路線分では不足するはず。しかし、高速鉄道用地を成田新幹線(東半分)と北総線(西半分)で分け合う形になったため、鉄道用地が不足することはなかった。

北千葉線は都営新宿線・京王線との相互直通運転を行う計画だった。実現していれば、このほど完成した京王電鉄の5000系(写真)も成田新幹線の列車と並走していたかもしれない(筆者撮影)

ちなみに、現在の北総線は京成高砂駅に接続して京成線・都営浅草線・京急線との相互直通運転を行っているが、北千葉線は本八幡駅まで伸ばし、都営新宿線・京王線との相互直通運転を行う計画だった。「都営」新宿線が千葉県市川市内の本八幡駅まで建設されたのも、北千葉線との接続を考慮したためだ。

この時点の計画が実現していれば、現在の千葉ニュータウン中央―印旛日本医大間では、北千葉線と成田新幹線の線路が並行したことになる。今頃はJR東日本のE2系新幹線電車と、京王電鉄の新型5000系電車が並んで走る姿を見ることができたかもしれない。

反対運動や経営悪化で鉄道用地は放置

こうして千葉ニュータウンの造成にあわせて鉄道用地の確保が進められたが、鉄道の計画は当初の予定通りには進まなかった。

成田新幹線は、予定ルート上の東京都江戸川区を中心に建設反対運動が激化。ニュータウン外では用地をほとんど確保できなかった。成田空港付近の高架橋やトンネルが完成した1983年には、国鉄の経営悪化を受けて凍結。1987年の国鉄分割民営化にあわせて正式に中止されてしまった。

北千葉線も、とくにニュータウン外の本八幡―新鎌ヶ谷間で用地買収が進まなかった。そもそもニュータウン自体、第一次石油ショックの影響などで計画が縮小され、2本の通勤鉄道を整備する必要性が薄れた。結局、1978年に計画が凍結され、2002年には正式に廃止されている。

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