女性初の工場長になったママ社員の「価値観」 「女が来た」から始まった現場での格闘
――念願かなって、いかがでしたか?
最初は大変でした。P&Gというと「アメリカの会社」と思われているかもしれません。女性も多いのでしょう、と。本社勤務は当たり前のように女性社員や女性管理職がいましたが、私が赴任した2000年頃の工場は、そうではありませんでした。まさに「女が来た」という感じに受け止められました。
問題は性別だけではありませんでした。ずっと本社勤務で現場経験がない。それなのに、オペレーションマネジャー、つまり管理職として来たわけです。最初はまったく、思うようにいきませんでした。自分で希望したのだから、泣き言を言ってはいけない、と思いつつ、何度も泣いていました。
どれも、ひとりでやろうとはしなかった
――誰かに相談しましたか?
いちばん助けになったのは、アメリカ人女性の先輩でした。彼女は日本に赴任してきて数年滞在している間に親しくなりました。私が工場勤務になった時はアメリカに戻っていたのですが、メールで相談すると、実践的で効果的なアドバイスをしてくれました。
今思うと、私が当時サバイブ(生き残り)できたのは「助けて」と言えたからだと思うんです。仕事では彼女にアドバイスを求めましたし、家庭のこともひとりでやろうとはしませんでした。たとえば「掃除はしない」と決めたら、本当にやらない。ダスキンのサービスを頼んで任せる。完璧を目指してストレスをためなかったのがよかったと思います。
――高崎工場に赴任された頃、小さいお子さんがいらしたと思います。家族のいる女性にとって、転居を伴う異動はキャリア上の大きなハードルになります。どうされましたか?
自営業をしていた夫は大阪に残り、私が生後半年と5歳の子ども2人を連れて高崎へ行きました。高崎にいた3年間は実母に来て同居してもらい、家のことや子どものことをサポートしてもらったのです。
シフト勤務はありませんでしたが、緊急の事態に備え、高崎工場勤務のときは複数のシッターさんに定期的に来てもらっていました。それは、万が一、私が緊急の案件があり、かつ実母も病気などの場合も想定し、子どもたちが慣れているシッターさんを確保しておくということが大切だと思ったからです。経済的負担もありますが、仕事に責任をもち、自分に対する精神的支えという意味で、とても助かりました。
振り返ってみると、キャリアと家族のことについて迷ったり悩んだりしたとき、いろんな国からきた多様な文化背景を持つ同僚や先輩がいたおかげで、柔軟に発想できたと思います。私ひとりで考えていると、割と「母親だから●●しなくてはいけない」とか「女性だから〇〇すべき」と思ってしまいがち。でも、異文化の同僚たちは私が思いもよらないアドバイスをしてくれます。「あ、そういうふうに考えてもいいんだ」と気づくと、自分が本当にやりたいことを選んで生きていけるように思います。
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