「自分がいないと職場は動かないと言っていた彼。倒れた日も職場はちゃんと動いていた」
10代の時にNHKで見た過労死ドキュメンタリーで流れたナレーションが、今でも忘れられない。その十数年後、私自身が過労で何度か倒れたが、そのたびにこの言葉は証明された。
政府が進める「働き方改革」で検討事項の1つである「長時間労働の是正」が注目されている。大手広告代理店の電通で新人女性社員が過労自死し、労災認定された事件が明るみに出たことで社会問題化した側面がある。
ただ、もともと長時間労働の是正は、出産・育児・介護との両立、ワーク・ライフ・バランスの充実など「一億総活躍」の文脈で提案されたものだ。
死に至らなくても倒れる者もいる
人間の命を守る意味でも、尊厳を守る意味でも、職場で人が死なない社会づくりが大事であることは間違いないが、いつの間にか論点のすり替えが、起こっていないだろうか。レベル感の違う話になっていないだろうか。過労死と過労自死にしても、似て非なるものである。死に至らなくても、倒れる者もいる。「長時間労働」の是正は適切に議論されているのだろうか? その対策も妥当なのだろうか。
長時間労働は健康やワーク・ライフ・バランスを阻害する、だから規制するべきだという論は、一見すると正論に見える。しかし、拙著『なぜ、残業はなくならないのか』でも詳しく解説しているように、長時間労働問題は根本的なシステムを理解しなければ、解決できない。解決策を装いつつも、結果として、さらなる労働強化になってしまう可能性もある。
「日本企業の残業は、なぜなくならないのか?」。あえて空気を読まずに回答しよう。答えは簡単だ。
残業は、合理的だからだ。
残業もまた、柔軟な働き方だからだ。
残業しなければならないように、労働社会が設計されているからだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら