福岡「博多芸妓」の江戸時代に遡る意外な原点 伊藤博文やウイスキーの「マッサン」も愛顧
やがて長崎に近い博多でひと稼ぎする芸妓がにわかに増え、そのまま博多に住み着く者も出てきた。これが博多芸妓のルーツなのだという。鎖国でも唯一、海外交易が認められていた長崎。芸妓たちは「エキゾチック・ビューティー」として、外国人に大人気だったらしいのだ。
博多芸妓が全国的にブレークしたのは明治・大正期。日露戦争(1904年勃発)後に満州を訪れた水茶屋券番の芸妓2人が「満州帰りの芸者」として鼻息荒く、客を客とも思わぬ豪気さで人気を集めた。そんな2人は「馬賊(ばぞく)芸者」と呼ばれ、やがて水茶屋の芸妓たち全般を指す愛称になった。「博多芸妓はおおらかで気っぷが良い」という評判を聞きつけ、初代首相の伊藤博文(1841―1909)が訪れたこともあるそうだ。全盛期には2千人超の芸妓がいたらしい。
福岡市によると、戦後、「馬賊芸者」と呼ばれた芸妓たちの逸話を地元紙「夕刊フクニチ」が取り上げ、北九州市出身の芥川賞作家、火野葦平(1906〜60)が小説化。これを原作に1954年映画化され、京マチ子や志村喬らの出演で話題になった。
美恵子姐さんが遠い記憶をたどってくれた。
接待で仕掛けたドッキリ
60年以上前の話。東京からある社長がやって来て、昼は太宰府の寺で、夜は博多の料亭で接待の宴会を開くことになった。そこで、接待側は一計を案じて、芸妓たちを変装させ、寺では尼さんにした。もちろん接待相手は夜の席で「あれ?」となった。
「仕掛けたのはニッカウヰスキー初代社長の竹鶴政孝さんと、うちの奴姐さん。ニッカ社員にも内緒にしてドッキリは大成功。その前後かしら。中洲の店はどこもニッカを置くようになって」
竹鶴政孝さんは、NHKの朝ドラ「マッサン」のモデルになった人物。奴姐さんは「最後の馬賊芸者」と呼ばれた伝説の人。藤子姐さんは「昔はお客さんの遊び方が豪快だったから芸者も豪快に振る舞えた。芸事を理解して、芸者を遊ばせるって感じ。良い時代だった」と振り返った。
(記者:木村貴之)
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