福岡「博多芸妓」の江戸時代に遡る意外な原点 伊藤博文やウイスキーの「マッサン」も愛顧
芸妓に会えるのは、どんたくなどの年中行事もあるが、日常の舞台はもちろん「お座敷」だ。(※年中行事と、お座敷の宴席ができる料亭はこちら。)
では、一体どんな人たちが、どんな目的で利用しているのか。超ベテラン組、地方の美恵子姐さん(85)と立方の藤子姐さん(72)に聞いた。
「社交界の入り口なのよ。(お客は)私たちが身に付けた小唄や三味線とかの世界を陰で勉強してくれて。浮き世の義理ってもんよ。そこから輪が広がり、人脈も広がる。政財界でのね」(美恵子姐さん)
「福岡の企業では昔から、総務や会計の課長になったら小唄を始めたもの。めっきり減ったのは寂しいけど。それでも美恵子姐さんのお弟子さんになって小唄を勉強している人、今でも50人位いるのよ。皆さん、領収証は使わず全部自腹で。自分への投資なのよね」(藤子姐さん)
江戸時代中期に遡る歴史
券番は、芸妓の取り次ぎや花代を精算する。今ならタレント事務所のようなものだ。博多券番によると、1889(明治22)年、現在の博多区奈良屋に「相生(あいおい)券番」が設けられたのを皮切りに「中洲」「水茶屋」などの券番が生まれた。大正時代には五つの券番が存在したが、昭和に入って戦時下に完全消滅。戦後に中洲、水茶屋などが復活し、1985年、一つにまとまって「博多券番」となった。
福岡で初めて芸妓が登場したのは、江戸時代中期とされる。当時、芸達者で座敷回しがうまいとあって全国的な人気を集めていたのは浪速(大阪)の芸妓だった。九州では長崎の茶屋に浪速芸妓を招く動きが活発になっていたが、当時の長崎には「域外からの滞在期間は100日限り」という規則があった。このため、下っては引き上げ、引き上げては下るということを繰り返した。