「退位した天皇」は歴史上、何をしていたのか 「5パターンある」のを知っていますか?
「天皇の退位を認めない」という規定は、明治時代にできた皇室典範がルーツです。この規定ができたのは、「天皇」と「上皇」という二重権力が生まれることを、当時の政府の中心にいた伊藤博文らが危惧したからだといわれています。
江戸時代までは、「天皇の退位」は普通だった
ただし、退位した天皇(=上皇)は、全員が院政をして権力をにぎったわけではありません。院政を行った上皇は、江戸時代までに26人だけでした。しかも、院政に政府としての実権があったのは、平安時代末期の「後白河上皇(法皇)」までです。
ではそのほかの天皇は、退位したあと何をしていたのでしょう?
上皇が出家すると、「法皇」と呼ばれるようになります。これは「太上法皇」の略称で、35人の上皇が法皇になりました。先述の「白河上皇」や「後白河上皇」のように、出家してからも権力を握り続けた法皇もいます。
しかし、寺院に入って修養に励み、静かにその後の生涯を送った法皇も多かったのです。
熱心に学問や和歌に励んだ上皇もいました。
和歌で才能を発揮した上皇(法皇)は多く、平安時代の「花山(かざん)法皇」は『拾遺(しゅうい)和歌集』を自ら編纂していますし、鎌倉時代初期の「後鳥羽上皇」は『新古今和歌集』の選集にも関与しています。
ほかにも、鎌倉時代末期の「伏見上皇」、安土桃山時代の「後陽成(ごようぜい)上皇」、江戸時代の「後西(ごさい)上皇」ら、多くの上皇や法皇がすぐれた歌集を残しています。和歌ではありませんが、「後白河法皇」は、民間に流行していた今様を集めた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂しました。
学問に通じた上皇も多く、南北朝時代の「長慶(ちょうけい)上皇」は『源氏物語』を研究して『仙源抄(せんげんしょう)』を著しました。
江戸時代の「霊元(れいげん)上皇」は、宮中の儀式を記した『法皇八十御賀記(ほうおうはちじゅうのおんがのき)』などでも知られます。鎌倉時代の「順徳上皇」は、「有職故実(ゆうそくこじつ)」という朝廷の儀礼・儀式を記録・解説した『禁秘抄(きんぴしょう)』を撰しています。
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