清水富美加の「自然体」を読み違えた男の考察 「個性」ではなくカタにはまっていた

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さてしかし、その清水富美加が突然の引退宣言をしてから明るみに出たところでは、彼女は、とある新興宗教の二世信者だった。

で、信仰告白してから後の彼女の言動を仔細に観察してみると、あらまあびっくり、彼女の立ち居振る舞いのいちいちは、あの不可思議な教団の信者に特有な、型通りのリアクションから一歩も外に出ていない。なんというのか、教祖サマから指示されたコメントを繰り返すだけの、お人形さんみたいな所作に終始しているのだ。

なるほど。そうだったのか。

つまるところ、私は、彼女の若干浮世離れした信者っぷりを、彼女個人の内部から立ち現れている「個性」であると判断し、その一風変わった偏向のありように魅力を感じていたようなのだ。なんということだろう。実のところ、カタにハマっていたのは清水富美加の方で、同じ人格の劣化コピーにしか見えていなかった凡百のタレントの女のコたちの方が、ずっと自然体だったわけだ。

超然とした態度でビラを配る「不気味ちゃん」

振り返ってみれば、はるか40年前、私は、通っていた高校の通学路で、今回とまったく同じタイプの見込み違いをやらかしていた。当時、私は、駅前広場から少し外れたポイントに時々あらわれては、手製のガリ版刷りのビラを配布している、神秘的な雰囲気の女性に入れあげていた。

いかにも超然とした態度でビラを配っているその女性を、私の仲間内の友人たちは、「不気味ちゃん」と呼んでいたのだが、私は、ただ一人、彼女を高く評価していた。

「あのヒトは自分を持っている」

と。しばらくして、配布していた印刷物から、彼女が、当時東京の一部で猖獗を極めつつあった統一教会の信者であることが判明した。たしかに、ビラを読んでみると、彼女の文章は、その後の人生で、私が何度か目にすることになる、狂信者の独白だった。

過度な信仰に邁進する人間は、個性を失う。

というよりも、あるタイプの宗教は、信者から、人格を剥奪するに至る。実際、巣鴨の駅前に黒板を持ち出して世界を図解してみせていた彼女たちのグループは、人間らしい表情さえろくに外にあらわさない人々だった。

とはいえ、その一方で、周囲の空気に同調することをしない新興宗教の信者が、一見、個性的に見えることもまた事実ではあるわけで、おそらく、そうした宗教の信者のカタにハマった逸脱の様相に魅力を感じることが、私のような人間に与えられた役割だったということなのであろう。

清水富美加嬢が、この先、どんな人生を歩むことになるのかはわからない。

できれば、目をさまして、戻ってきてほしいとも思うのだが、そうなったらそうなったで、たぶん私は、彼女に魅力を感じなくなることだろう。うん。困ったことだ。

(文・小田嶋隆)

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