競輪事故で地獄を見た男が編み出した「逸品」 14年先まで予約が埋まるパン・ケーキの正体
そうやってひとりで悶々としている時期に現れてくれたのが、のちに奥さんとなる「総子さん」でした(年上で競輪界の先輩ということもあり、体育会系の僕としては今でも常に敬語です、笑)。レース場での仕事上の出会いがきっかけでしたが、競輪一本で進んできた僕とは違い、モデルや司会、映画や雑誌の仕事など、あらゆる仕事をこなす彼女に、「自分にないものを持っている」と、惹かれていったんです。知り合いだった同期に頼み込んで、なんとか連絡をつけてもらい、そこから交際に発展。独身時代は、試合とトレーニング以外は大船の六畳一間のアパートに籠もりっきりでしたが、彼女と知り合ってからは、外に出てキャンプや登山をしたり、新しい練習方法を示してくれたりと、今まで知らなかったさまざまな景色を僕に見せてくれました。
「煙突のある白い一軒家を建てる」夢を叶えてくれたのも彼女でした。僕の30歳の誕生日に結婚したのですが、競輪以外何も知らなかった僕の代わりに、土地探しからローンの手続きまで、すべて奥さんがやってくれ、そうやって夢を叶える二人三脚のチーム体制はできていったんです。
「一生寝たきり」宣告。復帰に向けたリハビリ生活
――生涯の伴侶も得て、幼いころからの夢の一軒家も手に入れることができました。
多以良氏:新しい生活に向けて心機一転、成績もどんどん上がり、ついに最高ランクのS級も目前というところまで来ていました。2005年大宮競輪場での試合までは……。
その日のレースも、いつものように首位を争い先頭集団に。ところが、ゴール目前で突然、他選手の落車に巻き込まれ、僕はおでこからバンク(競輪場走路)に激しく叩き付けられました。事故が起きた瞬間は、本当にスローモーションの世界で、ゴールを目の前にして、周りの景色がゆっくりと回転しているかのようで。ただ、そこからの記憶がなく、次に目が覚めたのは病院のベッドの上。脳、頸髄を損傷し、1週間近く、意識不明の状態だったのですが、ただ、奥さんが駆けつけてくれた時には、無意識の中、涙を流していたようです。
――総子さんは、当時の状況をどのように記憶していますか。
総子さん:競輪場からの連絡を受けて、私が救急病院に駆けつけた時には 意識はなく、顔面蒼白の状態。首から下の感覚がない全身麻痺の状態で、医師からは「ここ数日がヤマかも知れません」と宣告されました。生死の境をさまよったのち、ようやく意識が戻ったものの、脳のダメージから起こる失語症から言葉も出てこない、「1+2=3」といった簡単な計算もできない、まるで赤ちゃんに戻ってしまったような状態でした。その日から横に簡易ベッドを置いて付き添い看護が始まりました。
多以良氏:それまで何度も怪我は経験していましたが、「今回の怪我はいつもとは違う」とかなり焦っていましたね。時間とともに徐々に事の重大さがわかってくるのですが、最初は自分が置かれた状況を飲み込むのにとにかく必死でした。幼いころから憧れ続け、それだけを考えて文字通り競輪一本で走り続けてきたので、到底受け入れられないという気持ちと、脳の損傷・後遺症からくる全身麻痺で、身体を動かせないことによる苛立ちから、奥さんに八つ当たりをしてしまうことも……。