競輪事故で地獄を見た男が編み出した「逸品」 14年先まで予約が埋まるパン・ケーキの正体
――その間、諦めて別の道に進もうとは……。
多以良氏:そのころの僕には、とにかく「競輪選手になって、賞金で煙突のある白い一軒家を建てる」という目標しか頭にありませんでした。一度決めたことはやりきらないと、気持ちが落ち着かなかったんです。
当時、日本競輪学校の入学試験では全国から1000人くらいの入学志願者がいて、そこからから何度かの選考を経て、最終的には5人しか合格できないという状況でした。僕が合格できたのは、年齢制限ギリギリの23歳の時。受験6回目にして、ようやくの合格。最後の試験も、技術や体力はそれまでとさほど変わっていませんでしたが、心は「これで最後だ」と開き直っていたんです。この時に、「気の持ちようで結果は変わる」ということを実感しましたね。
なんとか入れた競輪学校でも、自分の競技スタイルと学校の練習スタイルのギャップや、スパルタ式の教育に苦労したのですが、「ここを突破しなければ」と、気の持ちようを変えてみることで、なんとか乗り切っていました。もともとメンタルは強い方ではないのですが、見方を少し変えてみることで、新しく道が拓けることを学んだ時期だったと思います。そうして、競輪学校での1年間をなんとか乗り越え、ようやく競輪選手のプロライセンスを手にすることができたんです。
新しい景色を見せてくれた生涯の伴侶との出会い
――いよいよ、念願の競輪選手として漕ぎ出します。
多以良氏:プロになると、すぐに全国の競輪場を舞台に戦うことになります。プロにもB級、A級、S級とランクがあり、最初は一番下のB級からスタートするので、賞金も今考えるとそんなに高額というわけではなかったのですが、それまでのアルバイトで手にするお金とは桁違いの金額に、当時は驚きを隠せませんでした。
ただ、僕の今までの人生を振り返るといつもそうなのですが、よいことの後には、何かしら反動があるんです。プロとしてデビューした矢先には、父が病気を患ってしまって、稼いだお金も治療費に当てていて。その後の選手生活も、成績こそ徐々に上がり賞金額も増えていったものの、途中では、さんざん怪我に悩まされていました。腰椎骨折、前歯と顔面粉砕骨折、鎖骨は左右2回折っていて、左の方には今もボルトが入っているのですが、これらの事故は、いつも上がり調子の一歩手前。一度怪我をしてしまうと、なかなかレースの勘を取り戻すのが難しく、以前の感覚とのズレからが生じるストレスで、順風満帆とはほど遠いものでした。