2.26事件は「上司に恵まれない部下」の悲劇だ 「土壇場で梯子を外された」青年将校の末路

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Q10. なぜ計画が不完全ながらも、決起したのですか?

「統制派」が掌握した陸軍本省によって、当時「皇道派」の中心とみられた東京の第1師団を3月に満州に派遣することが急きょ、決まったからです。

そのため青年将校らは決起を焦り、計画がまだ不完全なままクーデターを実行。肝心の詰めの部分は計画しないままの中途半端な行動になってしまいました。

なお、彼らに率いられた1400人もの将兵は、下士官、兵のほとんどが出動に際して内容を何も知らされていませんでした。

「天皇の一言」でいっきに鎮圧へ

Q11. 最終的に「決起」が失敗に終わったのは、なぜですか?

最大のポイントは、対応に煮え切らない陸軍に対して天皇が激怒し、「朕(ちん)自ら近衛師団を率いて鎮圧に乗り出す」とまで発言したことです。さらに、海軍も鎮圧に強い意向を示しました。

はじめはクーデター部隊にも理解を示していた陸軍上層部も、天皇の理解が得られないとみると、突如として、手のひらを返します。

「蹶起部隊」「行動隊」と呼んでいた青年将校らを「反乱軍」「叛徒(はんと)」と呼び、戦車を含めた総計2万4000人もの包囲軍を組織して、自らも鎮圧する側に回ってしまったのです。

クーデターの成功を待っていた青年将校は、思わぬ形で上司にはしごを外され、さらには「逆賊の汚名」まで着せられて、完全に孤立してしまいました。

Q12.「海軍」も鎮圧部隊を出したのですか?

すぐに鎮圧の意向を示し、横須賀から戦艦「長門」をはじめ40隻の軍艦をお台場沖に展開させ、さらに陸戦隊を芝浦に上陸させました。

海軍側は、殺害された斎藤内大臣や重傷を負った鈴木侍従長、殺害されたとされて後に存命がわかった岡田首相らの重臣が海軍の出身者だったことから、海軍に対する陸軍のクーデターとも考えたのです。

昭和天皇の記録をみると、このときの海軍側の鎮圧の対応を天皇が評価している記述があります。

実際には砲撃は行われなかったものの、お台場沖の軍艦の大砲の照準は、国会議事堂に定められていたといわれます。

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