2.26事件は「上司に恵まれない部下」の悲劇だ 「土壇場で梯子を外された」青年将校の末路

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今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

青年将校はなぜ決起したのか

Q1. 二・二六事件とは何ですか?

1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件です。

陸軍の「皇道派」に属する青年将校らは、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃。海軍出身の斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、陸軍トップ3の教育総監である渡辺錠太郎陸軍大将らを惨殺し、ほかにも海軍出身の鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)が重傷など、多数の死傷者が出ました。

部隊は、国会議事堂を中心とする官庁街(永田町、三宅坂一帯)で警視庁を含む諸官庁を占拠。東京は一時、戒厳令下に置かれます。

しかしその後、騒ぎはわずか4日で鎮圧されました。

Q2. 陸軍の「皇道派」とは何ですか?

当時あった「陸軍内の派閥のひとつ」です。

天皇親政や極端な精神主義を唱え、クーデターを画策するなど、急進的な思想行動を実践することを持論としていました。事件の前年、「皇道派」の相沢中佐が、陸軍省内で永田鉄山軍務局長(「統制派」といわれた)を殺害する事件を起こしているのは、その一例です。

これと対立する「統制派」は、政党・財閥・官僚機構と協調して政治統制を進めるという考えでした。

Q3. 皇道派の「青年将校たちの目的」は何だったのですか?

大きく2つあります。

(1)国内外の経済危機を招き、国を滅ぼそうとする「元凶」と彼らがみなした政財界の要人を実力で排除し、自分たちの理想とする天皇中心の新政府を樹立して、国家改造を実現すること。

(2)そのころ台頭していたもう1つの陸軍派閥「統制派」から実権を取り返すこと。

「統制派」は当時、徐々に陸軍内部の人事権を掌握し、「皇道派」の重鎮たちを重要ポストから更迭していました。(2)こそが「決起の最大の目的」だったと思われます。

Q4. 一般市民の「事件への反応」は?

意外に冷静でした。事件の当日、異変を察した周辺住民の多くが、大雪にもかかわらず興味本位で決起部隊のやじ馬見物に足を運んだほどでした。

また、一部誤報もありましたが、翌日には新聞各紙が詳細を報じており、事件現場となった永田町周辺住民に出されていた避難命令も、クーデターが鎮圧された29日に即日解除され、東京は日常を取り戻しました。

Q5.「クーデター計画のシナリオ」は完璧だったのですか?

はじめの段階では、ほぼ予定どおりに計画は遂行されました。

彼らは政府要人を襲い、首相官邸や陸軍省、参謀本部、国会議事堂といった主要官庁や一部のマスコミを制圧しました。ここまでの過程をみれば、一連の行為は紛れもなく「クーデター」そのものです。

ところが、この計画は「重大な欠陥」がすぐに露呈するのです。

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