2.26事件は「上司に恵まれない部下」の悲劇だ 「土壇場で梯子を外された」青年将校の末路
2月29日朝、甲府や佐倉から派遣された鎮圧部隊に完全包囲され、いまや反乱軍となった部隊に向けて、投降を呼びかけるビラが投じられました。その中の一文「一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」の「今からでも遅くない」は、後に流行語となります。
これをきっかけに、続々と投降が相次いだため、青年将校もついに計画を断念。わずか4日で決起は終息しました。
それでも、多くの青年将校らは自決せず、裁判で自分たちの正義を広く世間に主張するつもりでした。
しかし、4月28日から開廷された裁判は「一審制」「上告なし」「非公開」「弁護人なし」というもので、7月5日に中心となった将校ら17人に死刑判決が下り、1週間後にはほとんどの者に刑が執行されました。「皇道派」の思想的支柱人物とされた民間人の北一輝らも、1年後に処刑されました。
一方、「皇道派」の上層部は、法的な処罰はほぼ受けませんでした。ただし、この事件によって「皇道派」は失脚し、青年将校らが排除しようとしていた「統制派」が軍の中枢をさらに強固に掌握していきます。
そして、「粛軍」の名の下に反対勢力を一掃。「事件の遠因は政財界にある」と政府にも責任を追及し、軍の意のままになる政治体制が次第に固められて、日本は戦争への道を突き進んでいきました。
歴史を知ると、「日本型組織の問題点」が見えてくる
2014年2月25日の毎日新聞は一面トップで、千葉県習志野市の旧酒屋の倉から「二・二六事件当日の憲兵隊幹部による『機密日誌』が発見された」と報じました。緊張の4日間、「反乱部隊」と「鎮圧側」両方の生々しい実態が、憲兵隊幹部の手でひそかに残されていたのです。
このように、二・二六事件はまだまだ不明な部分の多い昭和の事件です。
現在の日本では、武力によるクーデターなど想像もつかないかもしれません。しかし、二・二六事件はいまからわずか81年前、実際に日本の首都・東京で起きた出来事です。
そのとき、日本はなぜこのような事態を引き起こす状態にまで陥ったのか。当時の歴史をあらためて学び直すことは、「日本人とは何か」「日本型組織の問題点は何か」を考えるための最良の材料になるはずです。
日本史は「人間と組織」を考えるための教訓に満ちています。ぜひ、二・二六事件を「深く」知ることで、現在の平和な時代のありがたみと同時に、「日本と日本人に潜む危うさ」を実感してみてください。
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