(第13回)阿久悠の履歴書4--明大から宣弘社へ
●阿久の音楽観を変えた『暴力教室』の衝撃
さて、阿久悠が上京してきた昭和30年、彼の運命を変えた音楽的胎動についても、述べておかなければならない。
この年、伝説的映画スター、ジェームス・ディーンの『エデンの東』と同時に旋風を巻き起こしたのが、上映反対運動もあった『暴力教室』である。
邦画では『浮雲』(成瀬巳喜男監督)、『夫婦善哉』(豊田四郎監督)といった文芸路線がなお主流のなか、石原慎太郎の衝撃のデビュー作『太陽の季節』(同年)と風俗的に連動していたのは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによる挿入歌『ロック・アラウンド・ザ・ロック』で名高い『暴力教室』だった。
阿久悠はこれを、ロックンロールの日本上陸第一号とし、その衝撃をこう語っている。
「腰が抜けるほどびっくりした。音楽は流れるようなものと思っていたのが、たたくという種類のものがあると知った」(『時代の証言者11「ヒットメーカー」阿久悠』)
日本における同年のヒット曲が、島倉千代子『りんどう峠』、三橋美智也『おんな船頭唄』といった本流の歌謡曲であってみれば、阿久悠の「腰が抜けるほど」は、決して大げさではなかったはずだ。
電気洗濯機の普及を契機とする「家庭電化時代」の到来、太陽族の出現、週刊誌ブームなど、脱戦後化の動きは押しとどめ難く、経済白書の「もはや戦後ではない」が流行語になったのが、昭和31年のことであった。
今はなき日劇で、ウエスタン・カーニバルが開催され、ロカビリーが大流行するのが昭和33年のこと。
翌34年、阿久悠が明治大学を卒業する年が、皇太子時代の現天皇の御成婚に当たっている。テレビ時代の到来は、このロイヤル・ウエディングのテレビ中継をきっかけにしていた。
●広告代理店・宣弘社へ就職
ところで30年間、巡査としての職をまっとうした阿久悠の父・深田友義は、息子の大学入学を機に宮崎に引き上げる決意をし、住み慣れた淡路島を去る。
姉は神戸に就職、ここで深田一家は事実上、離散状態となる。
父の乏しい退職金と恩給の中から、月々1万円の仕送りを受け、四年間の学生生活を送った阿久悠は、昭和34年の春、それよりわずか500円プラスの初任給1万500円で、宣弘社という広告代理店に就職する。
「就職の年が1959年(昭和34年)だったのは、運命的な巡り合わせでした。広告代理店が急増して、それまで大した数じゃなかったのに、東京だけで年に500社も新しい会社が生まれ、58年にはたいへんな数になっていたのです。時代の職種らしい、と思いました。ただ、広告代理店はまだ一般的ではなく、僕も何をする会社か知らなかった」(『時代の証言者11』)
宣弘社は2代目社長の小林利雄が、ネオンサインと国産テレビ映画の草分け『月光仮面』の制作で名をなした新興の広告代理店だった。
ビデオが普及する以前、映画のフィルムで撮られたのがテレビ映画だ。
阿久悠は、「ただいまテレビ『月光仮面』制作中」の募集広告にひかれて就職試験を受け、130人中合格者5人という難関を突破して入社した。
「神武景気」から、一転「なべ底不況」へ落ち込む、高度成長前夜が阿久悠の学生時代だった。
彼の一世代前の作詞家・永六輔が、「冗談工房」という三木鶏郎が主宰する放送作家集団(野坂昭如も五木寛之も所属していた!)から独立して、第1回レコード大賞受賞曲『黒い花びら』(歌・水原弘)の作詞でブレイクしたのが、同じ昭和34年のこと。
後の東京都知事・青島幸男作詞の『スーダラ節』(歌・植木等)は、さらにその2年後だ。