(第13回)阿久悠の履歴書4--明大から宣弘社へ

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(第13回)阿久悠の履歴書4--明大から宣弘社へ

 

高澤秀次

 

●知られざる阿久悠の学生時代

 昭和30年(1955)、明治大学文学部に入学した阿久悠の学生時代については、あまりよく知られていない。

 小説では、『瀬戸内少年野球団』のその後の世界として、東京を舞台とする『最後の楽園』という作品があるが、もとよりこれはフィクションである。

 阿久悠の学生時代は、朝鮮戦争後、60年安保前夜の4年間ということになる。
 本人の語るところでは、「十八歳から二十二歳まで、土の中の蝉の幼虫のように何もせずにじっとしていた」(『生きっぱなしの記』)ということである。

 しかし、昭和30年代前半が、何もない時代だったわけではない。
 阿久悠が大学に入学した年は、奇しくも保守合同による自民党の結成と、社会党の統一が重なる、いわゆる55年体制のスタートの年であった。

 日米安保条約改定を前に、ジェット機利用のための立川基地拡張で砂川闘争が勃発、学生運動にも飛び火した。
 阿久悠はデモへの参加呼びかけを断り、何の負い目もなく、ノンポリの立場を貫いた。
 ただの政治的無関心とは違う、という自負が彼にはあったのだ。

 「何しろ、ぼくらの世代は、堂々たるスローガンを信じてひっくり返され、教科書にベットリと墨まで塗って、「なかったこと」にさせられた少年の時代を持っている。(中略)声高なものも、美味しい言葉も、スローガンの匂いがすると信じない。それが、風俗や音楽や文化で主張する方法があり、政治より人の心を掴めると知って、浮き足立つものを覚えたのである。いい時代に東京に来た」(同)

 保守合同や砂川基地闘争よりも、阿久悠の心を捉えたのは、ロックンロール、マンボ(ダンス)、太陽族、テレビといった、その頃いっせいに開花した過激な風俗や音楽だった。

 今にして思えば、それはサブカルチャーの大波が、硬直した既成のカルチャーを、大胆に食い破っていくその第一波だったのだ。
 砂川闘争から安保闘争へと急進化する学生運動は、1960年の新安保条約の国会通過でいったん大きな挫折を味わう。だが、これらのサブカルチャーの急進化には、当面、挫折などあり得なかったのだ。

 阿久悠は、政治的な主張を非政治的に解体する、それらサブカルチャーの急転回に、むしろシンパシイを感じていた。

 彼と同年生まれでは、橋本龍太郎、小渕恵三、森善朗という、早大雄弁会出身の首相経験者が3人いる。
 阿久悠が驚きを禁じ得なかったのは、右にせよ、左にせよ、敗戦という少年期の"挫折"を経験したあとに、政治家を志す人間が同世代から現れたことであった。

 それほどに教科書の墨塗りのトラウマは、致命的だったのだ。

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