――1日にどれくらいの量を作るんですか?
「お蕎麦は4軒合計で1日1000杯くらい、うどんと合わせると1500杯くらいでしょうか。唐揚げは1日1500個くらいです。多い日は2000個出る時もあります」
――そんなに!唐揚げのあの重さを考えると、フライヤーを持つ手が腱鞘炎になりそうです。
「お蕎麦の数は従業員に任せていますが、唐揚げの個数は毎日私が決めています。金曜日や給料日後はやはり出るので、今日は多めにしようとか。やはり大量に余ると私自身がすごくがっかりしますので、そこは責任持って自分で決めようと」
――売れる時間帯はお昼頃ですか?
「そうとは限りません。朝と夜で売れる場所も違うんですよ。朝は4番線に成田線が入ってきます。快速を待って、上りの上野方面に乗り換えて都内に通勤される方が多いので、午前中は4・5番線ホームにある店が混みます。夕方以降は帰って来られる方が乗る成田線が1・2番線に停車します。停車時間がある程度あるので、その間に召し上がっていただける。なので4・5番線ホームの店は平日は18時半まで、1・2番線の水戸方面側の店は23時、ここ6号店は23時45分までやっています」
――なるほど、そういう事情で営業時間が違うんですね。そういえば、こちらが1・2番線で隣のホームが4・5番線ですよね。階段の表示には3番線がないのですが、我孫子駅に3番線ホームは…?
「実はあるんですよ! 2番線と4番線の間にある線路、あちらが3番線です。ほぼ回送と貨物列車しか走りませんが、存在しています」
5年間住み込みで働いていた山下清
――ところで山下清さんがこちらで働いていたそうですね?6号店にある「ぼくがはたらいていた弥生軒のおそばおいしいよ 山下清」という看板を見て知ったんですが。
「はい。とはいっても清さんが蕎麦を打っていたわけではありません(笑)。先ほどお話しました弁当屋をやっていた頃の話です。弥生軒は昭和3年に創業し、我孫子駅構内での弁当販売をしていました。清さんは昭和17年から5年間、住み込みで働いていたようです。行商の方に『弥生軒に行けば、お米があるよ』と言われて来たと聞きました。弁当屋だったので、確かに食いっぱぐれることはなかったようです」
当時は戦時中で食べ物がない時代。まさに助け合いの精神で、初代社長(植崎社長の祖父)は「来る者拒まず」と、すぐ受け入れたそうである。清さんは手先が器用で、弁当のレッテルを貼ったり紐でしばったりなど、細かい作業をしていたとのことだ。
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