「お弁当を売ったりお金の勘定などはできませんでしたが、例えば大根を切って、とお願いすると、最後の芯のところまで包丁をたててギリギリまで綺麗に切ったそうです。器用だし、繊細だったんですねぇ。清さんは父の2つ下で、当時2人とも20歳前後。歳が近いこともあって、仲が良かったみたいで。清さんは毎晩、ハガキサイズの絵を描いては父のところに持って来ていたそうです。父は絵の良し悪しなんてわからないから、そのまま捨てていたんですよ。それを聞いた時は、なんともったいない!と心底思いました(笑)」
――ほんと、なんともったいない!当時はまだ画伯として世に出てなかったんですね。周りに目利きの人がいれば・・・・・・。そして、よく放浪の旅に出ていた、と聞きました。
「はい、うちでは『放浪』なんてかっこいい言い方ではなく『夜逃げ』と呼んでいたそうですが(笑)。清さんは半年ごとに行方をくらましたそうです。前の晩に『今日は星がきれいですね』とか『今日は月がきれいですね』と言うと、翌日必ずいなくなっていた」
「最初は驚いて、祖父が『清どこへ行った?』と探していましたが、ある日『ただいま』とひょっこり帰ってくる。祖父が『ばかやろう!みんな心配してたのに何がただいまだ!』と怒ると、清さんは『帰ってきたら、ただいまだ』と飄々としていたらしいです。マイペースですね(笑)」
「冬」だけ描けなかった弁当の掛け紙
突然ふらりといなくなり、きっちり半年後に帰ってくる。これを5年間繰り返し、最後の夜逃げでとうとう帰ってこなかったらしい。そして時が経ち、やがて清さんが画伯として有名になったことを知る。
「みんな驚きました。連絡を取り、うちの弁当の掛け紙の絵を描いてくれることになったんですが、春夏秋冬の4種類の絵を描く予定が、冬を描く前に亡くなられてしまったんです」
山下清画伯は1971(昭和46)年、49歳の時に他界。掛け紙用の絵は、記憶を頼りに描かれたそうだ。
取材を終えてから、手賀沼公園へ同じ風景を探しに行ったが、当時の東屋はすでに壊され、今は新しい東屋が建っていた。とはいえ、清画伯と同じ風景を見ているのかと思うと感慨深い。
奇しくも今年の12月25日に我孫子駅は創業120周年だそうである。駅とクリスマスのお祝いと共に、山下清画伯を思い浮かべながら、クリスマスチキンを弥生軒の唐揚げ蕎麦でいただく、というのはいかがだろうか。
まさに「きよしこの夜」だ。
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