バルカン流浪の道は、「留置場」と化していた 「バルカンルート」に漂う難民たち<前編>

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難民たちはセルビアからではなく、クロアチアやスロベニアへと迂回ルートを試みる。だが、ルートは変わってもバルカン半島を通ることに違いはない。ハンガリーの国境があかなければ、すでに大量にバルカンに入っている難民たちも、後を絶たない不法越境者たちもこの地に溜まるしかない。

いま閉じたバルカンルートの内側では、各国が設置した収容所に難民が集められ、行き場なく滞留する。ギリシャからバルカン半島全体が、まさに難民たちの「留置場」となった。

「ジプシー」が通った道

ロマにとってバルカンは最初の欧州であり、欧州に続く"道"。数百年をかけて多くが定住地として選んだ土地でもある(写真:木村 聡)

ハンガリー国境沿いの難民キャンプからスボティツァ町の中心部に戻ると、路上で物乞いをしている母娘の姿があった。浅黒い肌で、黒髪、黒い瞳。さっきまで会っていた中東難民の人たちと見た目に変わらない。白人が闊歩する町では異質で目立つ容姿である。

「トゥー・ジャネア・ロマネ(ロマニー語はわかりますか)?」

いわゆるジプシーの言葉でたずねてみた。母親は黙ってうなずいた。片言ながら会話を続けわかったのは、彼女たちがコソボ出身のロマ(=ジプシー)で、住んでいた土地を戦禍で離れ、長らく各地を転々と暮らしているということだった。そのロマ母娘の一家も難民だった。

およそ1000年前に西インドの故国を追われたとされるロマ民族。西への流浪の中で、彼らもまたトルコからバルカンルートを通ってヨーロッパに入ったアジアの民である。

バルカン諸国には現在、ヨーロッパで最も多くのロマの人々が住み着いている。そして、いまだこうして難民となって漂い続ける人たちだっている。彼らはバルカンルートを抜けて欧州のどこに行き、どこに行けなかったのか。

一方、はるかな時を越え、再び欧州を目指しバルカンルートに殺到するアジア中東の人々。いったいヨーロッパは、彼らをどう受け入れるのだろうか。ロマたちの姿はそこになにを示唆するのか。

しばし中東アジアの難民から離れ、バルカンルートにとどまり続けたロマたちの町へ向かうことにした。

※中編に続く

木村 聡 写真家、フォトジャーナリスト

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きむら さとる / Satoru Kimura

1965年、東京都生まれ。新聞社勤務後、1994年からフリーランス。国内外のドキュメンタリー取材を中心に活動。ベトナム、西アフリカ、東欧などの海外、および日本各地の漁師や、調味料職人の仕事場といった「食の現場」の取材も多数。写真展、講演、媒体発表など随時。

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