統合は死んだ、だがEUは生きている 国家でも単なる国際機関でもない、等身大のEUとは?
暴動やストの報道は、より深刻である。ギリシャにおける暴動は、たしかにEUならびにユーロを支持する政党、さらには自国政府の緊縮財政に向けられたものであったが、火炎瓶が行き交う画像ばかりが繰り返し映され、その背後にある持続的な傾向に目が行くことは稀であった。そこでは統計にどんな数字が出ようと、ブラック市場や脱税の(豊かな)領域が広がっており、ある一定の富を市民層が蓄積してきている事実、多くの市民にとって緊縮財政がバカンスの期間や支出の切り詰めを意味する程度の問題であることまでが伝わることはほぼない。それは、困窮から気の毒にも自殺したご老人のニュースにかき消されるのである。
いきおい、反EU暴動の最中、たとえば地元のEthnos 紙が実施した世論調査では、75%以上がEUやユーロを支持し、ドラクマへの回帰を主張するのは5分の1に満たなかったという事実は埋没する(‘Une majorité de Grecs reste favorable à l'Europe malgré l'austérité,’ Le Monde, 19 fév. 2012)。この数字の背後には、ギリシャ国民の中に根強い自国政府(の統治能力)への不信があり、その傾向は多かれ少なかれ他の南欧の諸国民にも通底するものである。その裏返しとしてEUの比較相対的な有効性が浮かび上がるのだが、そこに目が行く報道はふたたび極めて稀である。
こうして、連邦国家を目指す統合はとうに終わってはいても、EUそれ自体は、国家でもなく単なる国際機関ともいえない宙ぶらりんの存在のまま、それなりに安定している。ただし、これは別の異なる問題が学知の課題として残っていることを示唆している。つまり、あまりにその学知が国家の存在に深く規定されているので、EUのような中途半端な存在を捕捉する社会科学上のことば(概念)がなかなか見つからないのである。この困難ゆえに、EUは、いずれ自身が国家になるか、さもなくばバラバラの加盟国に戻るか、という二者択一の予測に認識上絡み取られてしまう。この点については、EUのわかりにくさを言語化する作業の困難を含め、等身大のEUとそれがつむぐ論理について、以下の拙著で、できるだけ丁寧に展開した。ご関心の向きは、ぜひ直接当たられたい。
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