企業の謝罪会見は「汚い精神」にまみれている 組織の一員として、"道徳"とどう向き合うか

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そこで私は、会社に勤めることに対する恐怖からえんえん先延ばしにして、やっと37歳で大学助手になった。その話は何度もしたので今回は割愛しますが、たまたま卒論のときに選んだカント哲学になぜ50年近くも執着しているのかを顧みても、そのことは、私のうちに根を張っている「会社に対する恐れ」と何となくつながっているような気もします。

カントは、道徳的よさは「誠実性=真実性の原則」のみであることを強調する。それに代わるものは、何もない。生命も、愛も、家族も、健康も、精神的陶冶も、芸術も、まして富も、社会的地位も、名声も…これに比べたらクズのようなもの。どんなに愛に満ちていても、どんなに立派な仕事をしていても、どんなに人間的魅力に溢れていても、その人が「真実」にまともに向き合わない限り、言いかえれば、その人の心に「ごまかし」が潜んでいる限り、道徳的によくはない、ということ。

私はなぜか、(自分がそれに従っているかどうかはさておき)、こうしたことをヌケヌケと語っているカントにとても感動した。「道徳的よさ」、すなわち人間として最も大切なことはこれしかないな、とストンと胸に落ちる気がしたのです。もちろん、いくらでも反論できましょう。「いったい何が真実かわからないじゃないか」「ある行為が誠実であるかどうかは決まらないじゃないか」「自分でも突き止められないじゃないか」など…。

会社にとって「道徳的よさ」は無価値だ

しかし、こうした疑問はみな間違いです。それは、真実を幸福(とりわけ得になること)ととらえているからであって、無理にでもそれを排除してしまえば、個々の場合に何が真実であるかはかなりはっきりしています。その場合、具体的に判定する基準としては、フーコーが発掘したとも言える古典ギリシャ時代の「パレーシア」という概念がわかりやすいでしょう。

「パレーシア」とは、自分が(いろいろな意味で)不利になっても真実を語るか否かという場面で開かれる。真実を語れば、みんなから称賛されるという想定のもとに真実を語るほど容易なことはない。よって、カントによれば、こうした行為にはほとんど道徳的価値がないのです。カントの言う「道徳法則に対する尊敬」とは、まさに道徳法則をそれ自体として尊敬することですが、これを言いかえると、いかなる効果も考えずに真実が真実であるという理由のみによって、それを尊敬することとなる。たとえ自分がいかなる損害を蒙ろうとも、それが真実であるから尊敬する、そして語るということです。

まさに、これが「パレーシア」なのですが、これこそ現代社会ではまったく省みられないこと、いや想像さえできないことではないでしょうか? しかも、豊洲問題のみならず、やはり会社や役所といった組織こそ、際立ってこの原理に従いにくいと言えましょう。

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