東大を3度落ちた男が辿り着いたカフェ経営 映画や穀物栽培など手がける人気店の裏側
――ご自分でやらないと気が済まない……。
井川氏:……なんて言われた日には、「そんなわけないだろう」ってツッコミたくなりますよ(笑)。必要に迫られて、芽となる種を試行錯誤しながら蒔いています。条件が揃えば発芽する。こうした「種蒔きの哲学」は徐々に培われていったもので、『カフエ マメヒコ』に教わった生き残りの術。カフェを経営するなんて考えてもみなかったぼくが、こうしてお店を続けていけるのは、嫌いな種は蒔いていないからかもしれません。そして種蒔きのような「雑多」なものから生まれる可能性を感じているのは、幼少期の環境が大きく影響していると思います。そこがマメヒコだけでなく、ぼくという人間の原点なのかもしれません。
ひとつじゃない世界の存在
井川氏:実家はいわゆる転勤族で、ぼくは、当時父の赴任先だった札幌で生まれました。ある一時期を除いてほとんどはこちら(関東)で過ごしましたが、各地の転校先で「はじめまして」を繰り返していると、築き上げた世界がとても儚(はかな)いことを、身をもって感じていました。確固たるイデオロギーみたいなものに対して懐疑的なのは、その頃からです。
また、これも転勤族の子どもの宿命なのかもしれませんが、新たな世界で生きていくために、人の気持ち、周囲の大人の気持ちを推し量ろうとするところがありました。たとえば、うちは世間と比べてお堅い、体裁を大切にする家庭で、来客時の家人の対応ひとつとっても至極丁寧でしたが、裏では「急に来て、困ったわねぇ」と慌てたり、グチをこぼしたりするのです。その様子を、障子ひとつ挟んで、聞き耳を立てながら「大人はこうして世の中を渡っていくのだな」などと考える、そういう変な子どもでした。
――自然と養われた観察眼で、何を感じてこられたのでしょう。
井川氏:「この世の中は、そんなに単純じゃないぞ」ということでしょうか(笑)。小学2年生の時、川崎から仙台に転校したのですが、今でこそ新幹線も通って東京から2時間もかからずに行けますが、当時はなんだか遠い、知らない場所で、何もかもが違う別世界に大きなカルチャーショックを受けました。
たとえば川崎に住んでいた頃は、建て売りの住宅地が並んで、友だちもだいたいみんな似たような家庭環境だったのですが、仙台は歴史のある城下町で、家庭の職業も、だるま屋さん、お寺の住職、醤油屋さんなどなど……。サラリーマンの子どもなんてほんの一部の世界でしかないことを知りました。