学問の世界でもそうですが、本当に誠実にやっている場合には、絶対に見ている人がいます。誠意を持って、仕事で能力を発揮してやっていると、少しずつ変えられるようになってくる。ホストクラブだって1番になればいい。1番のホストはかなり自由が利くと思う。でも100番とかではダメです。
昔から学校が大嫌い
――どのようにして、大学教授、そして物書きという仕事に納まったのですか。
私は子どもの頃からとても生きにくいと感じていました。学校が大嫌いでした。特に、運動会とか遠足とか掃除とか何とか大会とか、勉強以外のことはすべてなければいいと思っていた。自分の感受性が変わっていると気づいたのは、小学校2年生くらいじゃないかな。勉強はできましたが、すごくヘンな子でした。太った女の先生が、「皆さん笑う2年生になりましょう、ワッハッハ、ワッハッハ」と笑い出したときに、私は1人だけ笑わなかった。そうしたら先生が、「中島君、なんで笑わないの?」と聞いたので「バカらしいから」と答えました。嫌な子ですよね。
今だったら何とかかんとか症候群とか、いろいろ病名をつけられたと思いますよ。でも、勉強が好きで成績もよかったから、それでもっていたんでしょうね。
私は東大時代、文Ⅰから法学部に行かずに、クラス50人で1人だけ留年して、哲学をしようと思い教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)に行きました。東大法学部卒だったら引く手あまたですけれども、そんなところに行ったってもちろん職なんか何もない。完全な落伍者じゃないですか。もちろん、親から何から、すべての人が反対しました。私自身も、法学部を捨てるということも、留年することも、親への初めての反発だったこともあって、天国から地獄に落ちるくらいの大ショックでした。でも、あれが自分の人生の正しい選択でしたね。
それから紛争が始まったりして、大学院で留年し、退学し、さらに法学部に学士入学し、さらに大学院に再入学し修士論文を書いて、しばらく予備校教師をしていましたが……。ウィーンに私費留学したときはすでに33歳でした。1979年、ジャパンバッシングのさなかでしたが。そこで日本人学校の非常勤講師をしながら、4年半で博士号を取って東大の助手になりました。その後、仲間たちがどんどん有名大学にポストを得て、自分は全然ダメだと思っていたときに、『哲学の教科書』(講談社学術文庫)が売れて、次々に本を書くようになりました。なぜか知らないけどね。そのときはわからない。でも、いつの間にかかなり危険な決断をしてきていました。自信があったわけではなくて、いつもどうにかなると思って。
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