「張り紙」は憲法を理解するための良い素材だ 困っている人のために憲法は何をできるか

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3)憲法は待たれているのか?

憲法は、国家権力をコントロールするためのよりどころである。憲法知識がごく一部の専門家だけにしか知られていないのでは、憲法はうまく機能しないだろう。市民の間にも理解を深め、権力者がおかしなことをしそうになったら、「それはだめです」と押しとどめる力を持たねばならない。

しかし、専門誌の論文や最高裁の判例を離れ、一般メディアや論壇の議論を見ていると、憲法は本当に待たれているのだろうか、という気がしてくる。そこで流通している憲法論議は、専門の研究者が普段考えていることとあまりにもかけ離れていることが多い。知識人と呼ばれる人たちまでもが、誤った前提のもとに議論をしていたりする。

例えば、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」する、と定めた憲法24条は、何を意味しているのか。戦前の旧民法では、婚姻に、親や親族の同意が必要であり、当事者の合意だけでは結婚できなかった。また、女性の地位が低く、選挙権もなければ、家庭内でも従属的な立場にあった。憲法24条はこれを改め、当事者の合意「のみ」で婚姻できること、男性だけでなく女性の同意も必要であることを定めるために制定された。

憲法24条は同性婚を禁じているわけではない

こうした時代背景を学んでいれば、憲法24条は、当事者の意思を尊重するために定められたのであって、同性婚を禁じる趣旨など全くないことは明らかだ。にもかかわらず、一般メディアや知識人とされる人が、「憲法24条は同性婚を禁じている」と解説したりする。人々の幸せを本気で願うならば、このような誤った言説を修正し、建設的な議論のベースを作っていかねばならない。

しかしながら、「そんなことは不可能なのではないか」と無力感に襲われることがある。人々がきちんとした学問的知識を求めているなら、そして、そうした学問的知識に裏打ちされた社会の実現を求めているなら、とっくの昔に誤りは修正されているはずではないだろうか。社会は、憲法の求める理想とはかけ離れた世界、すなわち、立憲主義の成立以前の世界を求めているのではないだろうか。

「やってられないなあ、本当に、私は待たれているのだろうか」、という憲法のぼやきが聞こえてきそうだ。いとうせいこう氏の名作『ゴドーは待たれながら』は、ベケット『ゴドーを待ちながら』を裏側から描いている。『待たれながら』のゴドーは、本当に待たれているのだろうかと、延々、逡巡する。これはまさに今の憲法がおかれた状況のようではないか。

しかし、憲法自身は、「ぼやく」なんて態度からは程遠い。憲法12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と力強く宣言する。

立憲主義の実現に向けた努力が徒労のように感じることもあるかもしれない。しかし、立憲主義のために精一杯努力して、ようやく今の状態にとどまっている。このささやかな努力をやめてしまったら、もっとひどいことになる。

憲法がぼやいているように感じたのは、単なる私のぼやきに過ぎなかったのだ。

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