松下幸之助は、常に「全身全霊」で考え抜いた 問わず語りに語った経営、そして人生

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わしも会社の基本理念を決める前は悩み続けてたわけや。昔は一般通念として商売するということが、なんか悪いことのように思われていたんや。商売人と蔑(さげす)まれ、なんか後ろめたさを感じながら、商売をしておった。

それにわしの店の近所に同じ仕事の店を出す人がいて、それでおのずと競争になる。ところが競争になれば、大抵わしのほうがうまくいくんや。それはいいのやけれど、その店がその度に、だんだん不景気になって、ついには潰れてしまった。お互いに競争だから仕方がないと言えばいえるけれど、さあ、わしは困った。こちらが良くなれば向こうは悪くなる。

そう考えると自分はこういうことをしておってもいいのかどうか。商売というようなことをやっていいのかどうか、悩むわな。だから、おのずとわし自身の仕事に取り組むのも力弱くなってな。そこでなぜ自分は物を造って商売しているのだろうか。はたしてこれでいいのかと考え込んでな。けど、いくら考えても結論は出んわけやな。

使命感の必要性を悟る

そういうふうに悩んでおったときに、ある人の誘いである宗教団体の本部に行ったんや。そしたら、きみ、えらいもんやな、その境内には塵ひとつ落ちていない。そればかりではない、信者の人たちが大勢全国からやってきてみんな熱心に掃除をしたり、雑巾をかけたりしておって、それがみんな奉仕や。まあいわば、ただ働きやな。

しかもみんなキビキビ動いている。びっくりしながら案内されるままにあちこち見せてもらったんやけど、なんと製材所まである。そこでも忙しそうに機械が動き、人々が働いている。そんなに木材を削ってどうするんですかと聞いたら、案内してくれた人が笑いながら、建てなければならない建物がまだまだ無数にあるのですという。

こういう光景をみて、わしは昨日まで悩み続けていたことと合わせ考えて、なんという違いだろうと思った。どうしてなのか、どうして宗教はかくも力強く盛んな様相を呈しているのか。人間には心の救いが大切だから、それを大事にするというのはわかるけれど、ひるがえって物も大事だと言えるんやないやろうか。心の救いと物の救い。両方がないと、人間は幸福とは言えんやろ。

にもかかわらず、こっちのほうは倒産したり、金儲けやというて軽蔑されたりする。しかもあっちのほうはひとつの教えにハッキリした値段もつけておらん。自由に納めなさい、まあ、そういうことやな。ところがこっちはチャンと値段をつけている。こっちのほうがもっと大きくなってもいいのにそうではない。なんでやろうかと帰りの電車の中でいろいろ考えた末、ハッと気がついたんや。

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