話をするよりも、話を聞くほうが難しい。いくらいい話をしても、聞く心がなければ、なにも得ることはできんが、聞く心があれば、たとえ、つまらん話をきいても、たとえば、向こうにあの杉木立があるやろ、あの杉木立を鳴らす風の音を聞いても、悟ることができる人は悟ることができる。そんなもんやで。
早い話がニュートンな、ニュートンという人は、リンゴの実が枝から落ちるのを見て、それで万有引力を発見しとるがな。リンゴが落ちる。ごく当たり前の、まあつまらんことやわな。けど彼はそれで宇宙の真理を発見しとる。ボーッとしとったら発見できんわな。見る心、問題意識があった、自然に耳を傾ける心があったからや。
その時々にどう解釈するか、できるか
その若い責任者がわしのなにげないその話を、そういうように理解したということはその人の、いわば力量の問題でもあるわけや。お釈迦さんやキリストさんの場合でも同じことが言えるわな。お釈迦さんの言われたことをその言葉だけでそのまま理解しとったら、あかんやろ。地獄があります、極楽がありますと言うて、そんな古くさい、そんなことないわ、あほなこと言ってるわと考えるようではあかんわけや。お釈迦さんの言われたその地獄極楽という考えを、その時々にどう解釈するか、できるかということやね。キリストさんの言葉でも同じことや。その言われた言葉をどう理解し、その時代その状況に応じてどう解釈していくか。言葉の奥にある真理というか、お釈迦さんやキリストさんの言わんとするところをどうとらえ表現していくか。ここが大事なところやな。
仏教がなぜ栄えたか。キリスト教がなぜ盛んなのか、ということを考えればそれはお釈迦さんやキリストさんの言われたことを弟子の人たちがその時代時代に合わせて、その言葉の奥にある真理を上手に解釈し表現していったからや。お釈迦さんやキリストさんも偉いが、そういう解釈や理解ができた弟子の人たちも偉いわな。それが弟子の人たちの力量というものやね。力量がないと、これができん。
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