障害者は健常者に「消費される」存在ではない 社会に刷り込まれている障害者への差別意識
重度障害者は「不幸な人々」ではありません。アシュリーのケースで言えば、医療機器や装具の開発、技術的にも人間的にも優れた介護システムの構築、社会保障等によって、両親が「アシュリーを産んで良かった」「そのままのアシュリーが愛おしい」と思えることができる社会の中に存在していられたら、だれもアシュリーを不幸だとは思わないでしょう。
筆者が小学生の頃、クラスに重い障害のあるT君がいました。T君が1人で出来ない事はクラスみんなで手伝い、休み時間には一緒に遊ぶことを通じて、T君も自分と同じであることやT君のことを周囲が助けてあげるのは当たり前、と理屈抜きに考えることができるようになりました。しかし最近は障害者を目の当たりにする機会がずいぶん少なくなったように思います。今の若い人々にとっての障害者とは、24時間テレビで見る「感動的な人」、もしくは電車の中で時折奇声を発する、自分とは違う「怖い人」くらいの認識しか持ち合わせていないのではないでしょうか。
4月に施行された「障害者差別解消法」
2013年には新型出生前診断(NIPT)が日本で認可されました。赤ちゃんに染色体異常があるかどうかが血液を採取するだけで簡単に分かるこの診断に対し、賛否両論が湧き起こりました。個々が受けるこうした診断は、自己決定として社会的に容認され、利用が拡大している現実がある一方で、今を生きる障害者への差別につながりかねません。診断によって障害のある胎児は中絶することが当たり前の世の中になると、「障害者は社会に生きている価値がない」との論理を肯定してしまう危険性があります。
同じく2013年6月には長年の障害者運動の悲願であった「障害者差別解消法」が国会で可決成立、今年4月に施行されました。障害者差別解消法では「不当な差別扱い」と「合理的配慮をしないこと」が差別になると明記されています。多様性や異質性、個人の存在価値を認め合いながら共に生きて行く社会がようやく実現したのです。障害者に対する差別意識とは、社会によって刷り込まれた差別です。
あまりにも重い障害のある人を見た時、ひるまない人はいないでしょう。それは率直な感覚だからです。そうした自身のまなざしを自覚すること、そして取り除くべき障害は社会の中に存在することを、日々の生活の中で繰り返し考え続けることが大切なのだと思います。
まもなくリオ・パラリンピックが始まります。繰り広げられる感動シーンに私たちはどのような視線を向けるのでしょう。
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