コーヒーに全てを捧ぐ男のこだわりと寄り道 「至高の一杯」の裏には妥協のない努力がある
その後も、研究を続ける傍ら、内戦の取材に来られた筑紫哲也さんをはじめ、日本から来る報道関係者の通訳のアルバイトをして生活費を稼いでいましたが、いよいよ実験区のある街も武装勢力に制圧され、避難のため米国ロサンゼルスに渡りました。
パンチパーマでジャマイカ人になりきる
川島氏:その後は、ロサンゼルスで当時コーヒーメーカーUCC上島珈琲の会長であった上島忠雄さんとご縁があって、入社させて頂くことになりました。そこから本格的に、世界の農園でコーヒー栽培に携わるようになりました。生産責任者として、世界各国でUCCの直営農園を開発に携わる傍ら、マダガスカル島では固有種マスカロコフェアの保護と低カフェインコーヒーを開発したり、フランス海外県のレユニオン島では絶滅したとされていたコーヒーの品種「ブルボン・ポワントゥ」の発見とコーヒー産業の復活を手掛けました。
「コーヒーのためにできることはなんでも」ということで、例えば長らく搾取の時代が続いたジャマイカでは、基本、外国人は信用されませんでしたが、どうにかして、彼らのコミュニティに入るために、「まずは外見から」と、パンチパーマにしたりしていました(笑)。それが功を奏してか、1050エーカー(東京ドーム90個分)の土地に三つの農園を作ることができました。
実はこのときも人生の大きな節目でした。開発担当から現地法人の社長となり、現地の役職者と会食が続き、農園に足を運べない時期が続いていました。見かねた家族からの「初心を忘れたのか」という言葉にハッとさせられ、会社を辞めて持っているものをすべて売って、マイアミでキャンピングカーを買って中南米を目指し、その旅の途中で気に入った産地があれば、そこで農園を拓いて生活しようと決めていたんです。
私の上司であった前述の上島さんからは、慰留という形でハワイ行きを打診されていたのですが、断るつもりでいました。ところが1988年、20世紀最大と呼ばれたハリケーン・ギルバートがジャマイカを襲い、せっかく作った農園も全滅し、住んでいた家も吹き飛ばされたのです。このときばかりは途方に暮れました。家族には避難のため、先にハワイへ行ってもらいました。ひとりになり決心がついた私は、「もとの素晴らしい農園に戻そう」と、復興に取りかかりました。マイナスからの出発でしたが、現地のスタッフの協力もあり「とにかくやるしかない」という気持ちで前に進むことができたんです。
もしこのことがなければ、今頃どこかの農園でコーヒー豆を栽培していたかもしれませんね。