インターに娘を通わせて思ったのは、向こうの教育が根本的に日本の教育と違うことだ。それは、やはり社会と文化の違いに根付いている。日本人は集団主義とよく言われるが、まさにそのとおりで、学校でも人と違うことをする子供は嫌われる。
日本の学校の先生の口癖は「ダメ」で、秩序を乱す子供に対しては「そんなことをしてはダメ」と注意する。それに対して、インターでは、人と違うことをすること自体に価値があり、先生はともかく子供を褒める。
こうした教師の姿勢は、実は、いじめにもつながっている。日本の子供たちは、ともかく「違う者」を排除しようとする。これを集団でやるのが、いじめだ。
しかし、人種も民族も国籍も違う子供がいるインターでは、全員が人とは違うのだ。つまり、「違う者」と仲良くするしかないことになる。もちろん、インターでもいじめはあるが、それは日本的な陰湿ないじめとは違っている。
とはいえ、学校とは第一に勉強をするところ。だから、インターを国際教育をする学校と捉えるより、欧米圏の大学への進学校と捉えるべきだと、私は思う。
「英語教育の是非論」に意味はない
ところで、「国際人」「グローバル人材」などと言っても、それが何を指しているのかわからないと、そういう人間にはなれない。これまで日本で行われてきた、この種の議論が的外れなのは、この点があいまいだからだ。
第一に、国際人などという人間はいない。単に英語を話せれば国際人になれるわけではない。日本人だろうと、アメリカ人だろうと、自分を育んでくれた国の伝統・文化を身に付けていなければ、「国際人」「グローバル人材」にはなれないのだ。
つまり、国際人、グローバル人材として通用する日本人、同じく、国際人、グローバル人材として通用するアメリカ人をつくるのが、インターナショナルスクールの教育である。別に、中国人であろうと、韓国人だろうと同じだ。
インターに行くと、日本人が国際人になるのではなく、異文化理解、多文化教養を身に付け、英語を話すことで、かえって日本を強く意識した「真の日本人」になるということだ。
私が提起したいのは「英語教育の是非論」ではなく、日本人としての確固たるアイデンティを持ったグローバル人材を育てる教育を、一刻も早く始めてほしいということ。そうでないと、今後の日本を創っていく次の世代は、ほとんどがグローバル世界の「負け組」になってしまうだろう。
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