それでは、話を戻して、1980年代後半、私の娘が横浜市中区のセントジョセフ・インターナショナルスクール(以下セント)に入学した頃のことを思い出すと、当時は今と同じように「国際化」ということが盛んに言われていた。今ではこれを「グローバル化」と言うが、当時は冷戦終結以前だから、そんな言葉はなかった。
「これからは日本人も国際人になる必要があるといいますね。その点でインターに通われているんですから、うらやましいです」と言われると、悪い気はしなかった。
ただし、当時のインターはどこも財政難に悩んでいた。設備は老朽化し、セントの場合は、教室にエアコンさえ設置されていなかった。日本はバブルの真っただ中にあり、その経済力はピークを極め、逆にアメリカ経済は今以上に不振だったからだ。
その結果、アメリカ人をはじめとする外国人の子供は少なくなり、米軍関係者の子供もほぼいなくなった。そこで、インターの中には、やむをえず、帰国子女ではない日本人(純ジャパ)の子供を受け入れるところもあった。
1980年代のアメリカ経済の不振は、ニューヨークに象徴されていた。当時、ニューヨークに行くと、街は荒れ、犯罪が多発。フォーティセカンドはポルノショップだらけで、ワシントン広場には昼間から麻薬の売人がたむろしていた。ジェイ・マキナニーの小説『ブライトライツ・ビッグシティ』やトム・ウルフの『虚栄の篝火』を読み返せば、当時の状況が今でも鮮やかによみがえる。
そんな退廃的な大都会からやってきた女性独身教師のスーザン・ガウチ先生が、娘の小学校2年生のときの担任だった。彼女はニューヨークの底辺校で教えるのに嫌気が差して日本にやってきた。
米国で教師をするのは命懸け
「私が勤めていたクイーンズの小学校の校門にはいつも警備員が立っていました。ガンやドラッグを持ち込む子がいるので、それをチェックするためです。それでも、校内でドラッグをやっている子がいたんです。授業は荒れていました。教師は命懸けです。1人で話して、ボードに字を書くので精いっぱいでした」
それで、「給料は?」と私が聞くと「月2000ドルに届きませんでした」というのでびっくりした。
アメリカの公立学校の教師のステータスは日本のように高くない。給料も大学卒として就職するホワイトカラー職種の中では最低ランク。そのため、男子学生の志望者は少なく、特に小学校教師となると9割以上が女性だ。
「それで、日本のインターナショナルスクールの求人広告をたまたま見つけたんで、申し込んだんです。現在、月に40万円もらっています。アメリカにいたときよりずっといい。それに、横浜はニューヨークより安全で暮らしやすいです」
ミス・ガウチ(アメリカでは先生には必ず敬称をつけて苗字で呼ぶ)は、同僚と学校が用意してくれたアパートで暮らしていた。
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